アイでもなくコイでもなく 番外編-セイテンのヘキレキ


このところ直江は不機嫌だった。

(なんかあったのかな)
そう思うのだけれど、高耶に対しては直江は不機嫌を精一杯に隠そうとしている。
それでももちろん、高耶が直江の些細な変化に気づかぬはずがない。

あからさまに不快を顔に出しているのなら
「なに怒ってんの?」
ひと言そう聞けばすんでしまうはずなのだが、無理やり繕ったみたいな笑顔を作るものだから、正面突破することができない。
だからといって、なにかというと潜めたため息をついてみたり、思い出したように眉顰めてたりされてると
(オレ、なんかしたか?)
そう心配になってしまう。

自分が原因―――ということはないと高耶は思う。思いたい。
まるっきり心当たりがないとは言わないが
(あれきりのことで直江はここまで不機嫌になりゃしないだろ)
そのへんはこの男の操縦法を、心得ている自信があった。

高耶の唯一の心当たりとは、オートバイである。

もともとバイクが好きで堪らず、高校生になるとすぐにバイトをはじめ、金がたまるのを待ちかねて免許を取りにいった。次はまた金を貯めてバイクを買おうと思っている間に、諍いを起こしてバイトをやめることになってしまった。
(でもいつか、きっと手に入れる)
高耶のそんな願望を知った直江が、足りない金を貸してくれることになった。当初はプレゼントしたいと言い張ってずいぶんもめたものの、結局高耶は折れなかった。

いいかげんにしろといいたくなるくらいにかまってくる恋人と、その恋人に少々借金をしてまでようやく手に入れた憧れのオートバイ。
ふたつを並列にしたら申し訳ないと思うのだが、両方ともが高耶にとって大切な存在であリ、宝物である。

直江と知り合ってからは、しごく真っ当に学校に通い、勉強もちゃんとしているし、新しくはじめたガソリンスタンドでのバイトも、手抜きせずに頑張っている。もちろん借りた金だって少しずつだがきっちり返している。
それもひとえに正々堂々、誰に引け目も感じずに直江と会いたいからだ。
いまだ世間の風当たりが和らいだとはいいがたいが、できることからやっていくしかない。
自分と付き合うことで直江が後ろ指さされたらいやだし、この男にふさわしい人間になりたいと、不遜ながらも思ったりしている。

プレッシャーはある。いじけて縮こまっていた心のせいで中学時代の何年間かを、自分が寄り道してしまったという自覚。それを取り戻したいという焦り。
それはそれでいい、遠回りしたことにだって意味はあるのだ。
直江はそういって力づけてくれるけれど、時として急に身を苛むような不安に襲われることがある。いまの自分が頼りなくてしょうがなくなったり、自分のこれからの生き方に思い惑ったり。
―――そんなとき、自分の心を落ち着かせるために夜の道にバイクを走らせる。直江にあえればそんな心の虚はすぐに埋めてもらえるのだが、あえないときにはそのかわりに、バイクが精神安定剤になってくれている。 好きだからこそ無茶な乗りかたはけっしてしないし、遅くならないうちに家に帰る。
あくまで気分転換のために走りに行くのだし、直江にもそういってあるのだが
「私とバイクとどっちが好きですか」
高耶を取られるとでも思っているのか、真剣な顔をして聞いてくるから困る。しかも度々だ。
「機械相手にヤキモチ妬くかよ、いいトシして」
馬鹿らしいと高耶は鼻で笑うのだが、直江のほうはそう簡単に納得できないでいるらしい。
もし自分が直江の不機嫌の原因だとしたら、それ以外に心当たりはないのだ。

(でも…バイク買ってから、もう結構たつよな)
直江の様子がおかしいと感じ始めたのは、ここ10日ほどのこと。3ヶ月も前に買ったバイクのことが直接関係あるとは思えない。
それでも高耶としては悩むわけである。

(ツーリング…どうしよ)

最近まじめに過ごしているせいか、これまで周囲と浮きがちだった高耶の周りにもすこしずつ友達ができ始めていた。
バイト先のガソリンスタンドでは、同じようなバイク好きの仲間が何人かいて、今度ツーリングに行こうという話が盛り上がっていた。

(そんなの行くっていったら、直江、嫌がるよな)

夏休みの最中なので、出かけるのは平日の昼間の予定だ。
山道走っていい景色眺めてリフレッシュして帰ってきて。直江に内緒で出かけたってばれないような計画なのだが。

(黙っていくのも、隠し事みたいっていうか、悪いことしてるみたいでいやじゃん?)

打ち明けようとタイミングをはかり直江の様子をうかがうものの、作り物みたいな笑顔を見ると、かける言葉をなくしてしまうのだ。





悶々として言い出せずにいるうちに、日にちだけがどんどんと過ぎていく。
(困ったなー)
ツーリングは今度の火曜日の予定だった。
週末のデートの間にその話をしておこうと思っていたのだが、ふかぶか刻まれた直江の眉間のシワをみるとなかなか言い出せない。
疲れた顔をしながらも終始高耶に気を使い、甘い言葉に美味しいご飯、やさしい抱擁と呆れるほどの愛情表現を繰り出してくれるから
(今回は参加あきらめてお留守番部隊にしとくかなぁ)
むしろそんなしんみりした心境になってしまった。
結局ツーリングのツの字も口にはできず、やっぱ直江を好きだからしょうがねえよなと改めて思いつつ、日曜日の夜、高耶はいつもどおり丁寧に家に送り届けられた。

綾子から電話が掛かってきたのは、部屋に戻って一息ついてすぐだった。

『今日のデートはどうだった?』
ウフフ、とあの美しい顔でニヤニヤ笑いをしているのだろう綾子は、開口一番そういった。
「デ…って、あのその、別にデートって訳じゃ」
携帯に向かって赤くなりながら、自称「恋のキューピッド」綾子に向かっていいわけしてしまう高耶だ。
『いまさらなに言ってんのよ』
ちっちっちっと舌打ちされた高耶はさらに赤くなり、これが電話でよかったと胸撫で下ろしながらごろんと布団に横になった。

『で、どうだったの。楽しかった?』
からかうような声音は、先ほどよりも遠慮が消えている。
隠したってしょうがない。というより綾子は実際自分と直江の関係を知り、応援してくれる味方なのだから、隠す必要はない。
「……楽しかった」
だからといって恥ずかしいのは変わりなく、高耶はぶっきらぼうに答えた。その口調がことのほかお気に召したようで、綾子はククク、とたまらないように笑った。
『高耶くんってば、もうたまんなくかわいいわね!』
「綾子さん!!!」

直江と一緒に何度か顔をあわせているのだが、その度綾子にいいように遊ばれてしまう高耶だ。弟か何かのように思ってくれているのだろう。ちょっかいをかけてくるその瞳も声もとても優しくて、高耶のほうも、直江同様綾子のことを、絶対自分を傷つけたりしない心許していい相手だと認識している。
だからちょっと頬を膨らませて
「男に向かってかわいいっていっちゃいけないんですよ」
文句をつけてみる。
が、
『だって本当にかわい…っと、かわいくないんだもん。これじゃ直江だってイチコロよねえ』
逆襲にあってしまった。
「あーやーこーさーん!」
これ以上ないくらい顔赤くした高耶が、低く恫喝する。
『ごめんごめん。でも』
笑いながら謝った綾子の口調が唐突に真摯なものになった。
『いきなり高耶くんに電話したのは訳があるからなのよ』
高耶はハッとしたように携帯を持つ手を握りなおした。


「昨日逢った時、直江、なんか自分のこと話してた?」
綾子に問われて、高耶はしばらく考えてからゆっくりと首を横に振った。
翌日、高耶のバイト先にから遠くない喫茶店で、ふたりは顔をあわせていた。学校から直接バイトに行く高耶のわずかな時間の空きに、わざわざ都合をつけて綾子がやってきてくれたのだ。
「……そう、何にもいわなかった」
「なんか疲れてるみたいだったけど……。でも、忙しい、っていう話はちょっと前から聞いてるし。いまやってるプロジェクトが一段落するまでは大変だって。それ、まだもうしばらく掛かるみたいだし」
「疲れてる、か」
「うん。あと……」
「あと?」
言いよどんだ高耶を促し、綾子が持っていたコーヒーカップを静かに置いて、掬い上げるようにして高耶をみた。
「あと? いってみて」
隠すことなんてできようはずのない視線で見つめられ、高耶はふうと息をついてから答えた。
「イライラしてるっていうか、なんか怒ってる感じで」
「そう」
「もしかして、疲れてるとこにオレがワガママばっかいって、余計くたびれさせちゃってるとか」
今度は逆に高耶が綾子を掬い上げるように見つめた。
ぱちぱちと瞬きした綾子が一転破顔して、バカねえ、と高耶のおでこを叩いた。
「あの直江に限って、あんたのワガママでくたびれるなんてことあるわけないでしょ!」
「……そ、っかなあ」
「そうよ!」
自信満々綾子は答え、それから急に高耶のほうに身を乗り出した。
「直江はね、いまトラブルに巻き込まれてる」
「トラブル!?」
とっさに頭に思い浮かんだのは『今度はどこの穴に落ちたのか』というひどくくだらないことだった。
幸いその想像はさすがの綾子にも伝わらなかったようで、真剣な顔で彼女は頷いた。
「うん。私はね、高耶くんにも話したほうがいいよ、って直江に言ったんだけど―――やっぱり昨日もいえなかったみたいだね」
「それって、会社でなんかあったってことですか」
「うん」
ちら、と綾子は腕の時計を見た。高耶のバイトの時間を気にしてくれているらしい。
「会社でというか、バイトで来てる子のことなの」
「バイト?」
「私は今直江とは違うプロジェクトに入ってるから、情報間接的だけど。クライアントのほうから変更変更言ってきて、あっちはずいぶんきつい仕事になってるらしいよね」

綾子と直江は同じ会社の同期入社組で、男だ女だいってるヒマもないほど競い合い、刺激しあい、実力人気ともに伯仲するライバル兼親友である。
足元どろどろの工事現場に立ち会うことも珍しくない業界なのだが、綾子は何ひとつ厭うことなく無粋な作業服を颯爽と着こなして大股で闊歩し、そのへんの男顔負けの威勢のよさと判断の速さで的確な指示だしをする。最初は『女なんて』と眉ひそめていた頑固な親方職人さんたちも、その豪快さに感服し、今では『あねさん』とかわいがられているのだと、直江の口から説明をされたときには、驚くと同時になるほどとものすごく納得してしまったものだ。

「それで、ヘルプいれることになって、会社でよくアドバイザー頼んでる大学の先生にアルバイトの学生さんを紹介してもらったの。2週間くらい前」

意味ありげに綾子が言葉をとぎらせた。

2週間。

直江の不機嫌がはじまったのは、ちょうどそのころ。
高耶はごくりと唾を飲んだ。

「女子学生だったのよねえ、それが。よくある話だけど直江に一目ぼれしちゃって」
ため息交じりに綾子の言うには、ごく普通の、むしろ地味な感のある女の子らしい。あまり恋愛の経験もなさそうなまじめなタイプで、それだけに思い込んだら止まらないとでもいうのか、真正面から直江にアプローチしてくるのだという。
「初日にお昼おごったりするから付け上がるのよ。お返しにとかいって、次の日お弁当作ってきて。計算づくか天然か知らないけど、みんなの前で渡されたら断れないじゃない? 受け取るだけ受け取って、2度目をよこさないようにうまく言いくるめるのに苦労したらしいけど、自業自得よ。で、そしたら今度は帰りに駅まで一緒に、なんていい出すし。直江が残業があるって断ったら、バイトさんは残業つかないのに一緒に残るって言ってみたり」
綾子は大仰に肩を竦めた。
彼女が気持ちを隠していたのなら、周囲も止めようがある。『アルバイトには残業させない契約です』、そういって無理にでも先に帰らせればいい。
だが
「直江のことが好きだから一緒に帰りたい。待たせてくれっていわれたら、返す言葉に困るのよね。もちろん直江は断固としてその子のこと帰らせちゃうけど。向かいのビルにある喫茶店で、直江の仕事終わるの待ってたりしたこともあったらしいし。まあ、直江が仕事終わって出てくる前にその店の閉店時間になっちゃったってことだけどさ」
不幸中の幸いよねー、と鼻に皺を寄せてみせた。
「直江のほうは相手にしてないの、周りから見ればよーくわかるのよ。でも本人は恋する乙女だからね、ぜんぜん気がついてない。直江がなにいっても自分がいいようにしか取らないから……そりゃ、あの鉄面皮男だって疲れるってもんよ」
「………そんなことがあったんだ」
冷めたコーヒーのカップをたなごころに包み、高耶は目を伏せた。
「ぜんぜん知らなかった。てか、気がつかなかった。オレって鈍感」
「気がつくわけないでしょ、直江はあんたに知られないように精一杯気を使ってたんだから!」
綾子ははっぱかけるように語調強めた。
「でもそれにも限界がある。バイトさんは紹介者のことがあるから契約終わるまでは切るわけに行かないし、実際仕事はちゃんとやってくれてるわけで、戦力にはなってるし。あのバカ困り果ててるみたいだから……素直に高耶くんに打ち明けなって、私は言ったのよ」
「オレに話しても、意味ないって思ったのかも……」
相談にもならない。ただ大変だね、せまられても浮気すんなよ、そんな的外れなことをいって、余計いらだたせてしまうかもしれない。
「違う違う、そうじゃなくて」
ああもう時間ないか。時計見ながら綾子は悔しげに唇ゆがめた。
「あのね、高耶くんが嫌がるからと思って、直江は自分に恋人がいるって周りにいってないのよ。いえば絶対に、相手は誰、どんな人って、あれこれ詮索されるに決まってる。あの男はあれで腹が立つくらい人気あるからね」
忌々しげに直江を誉める、綾子はなかなか複雑な心境なのだろう。
「『恋人がいる』。そういえばバイトさんだって引き下がるだろうけど、あいつは、もしそれで高耶くんのことがばれて、万が一にもいやな思いをさせることになるのだけは避けたいのよ」
伝票に手を伸ばし、綾子が席を立った。
「もう行かないと間に合わないね。車だからバイト先まで送ってくわ」
「綾子さん」
高耶も慌てて立ち上がった。
レジに向かって大股で歩きながら、綾子は振り向かずに後ろにいる高耶に語りかける。
「あいつのほうは、むしろ誰彼お構いなしにとっつかまえて『この人が俺の恋人ですいいでしょう羨ましいでしょう』って、自慢して回りたいのよ」

わかる。

熱くなる頬を押さえながら高耶はひとり頷いた。
彼は高耶のことを誰はばかることなく好きだという。

知っている。

直江は自分のことを好きで好きでたまらない。
怖いものなど何もないくらい高耶を好きで、そのくせ高耶を傷つけることだけは怖がっている。

(オレだって、直江のこと)

高耶が俯いて立ち尽くしている間に綾子は会計を済ませ、行こうと声をかけるとドアを開け外に出ていった。
「あ、綾子さん、コーヒー代!」
追いかけて走り出ると、夕方の外気はむっとするほど暑く、店の中が涼しかったためか二の腕にさっと鳥肌が立った。
「高耶くんからお金取ったりはしないわよ」
駐車場に停めてある会社のものらしい白いバンへと一直線に歩み寄っていく。
「コーヒー代は直江に30倍くらいにして返してもらう」
「さんじゅうばい」
それはボッタクリだなと高耶は思う。
「だから直江のこと、高耶くんも覚悟決めない?」
「か、ッか、覚悟?」
小走りに後ろについていきながら高耶が泡食ったように問い返した。
「うん」
にっこりと笑って綾子は振り返った。





工事渋滞に引っかかったりして、30分と踏んだ直江の会社までは実際は40分ちょっとかかってしまった。
時刻は6時少し前。
ほっと息をつきながら高耶は目のまえのビルを見上げた。表通りからはひとつ曲がってすぐの、1階の一部が吹き抜けになったビルは、ガラスに夕日を跳ね返すようにしてたっている。この5階に直江がいるのだと、高耶は知っている。
バイクを停めたのはそのビルの出入り口からはわずかに離れた、植え込みのある角だ。日陰になるから多少は涼しい。エンジンを切ってヘルメットを取り、汗でしめっぽくなった髪を指で梳く。

昨日の夜、バイトから帰るとすぐに直江に電話した。
「明日、友達とツーリングいっていい?」
真正面からそう聞いてみると、直江はすぐに温かみのある声で答えた。
『ええどうぞ。でも十分気をつけて』
「わかってる」
それから瞬きほどの間があって
『高耶さんのお付き合いなんですから、わざわざ私に許可なんてとらなくてもいいんですよ。もちろん気持ちはとっても嬉しいですけど』
電話の向こうで直江が笑う気配がある。
『よけいなこととは思いますが、くれぐれも無茶せず、事故を起こしたりしないようにしてくださいね』
「……わかってるって」
胸がジワンと熱くなる。
不安に思うようなことなんてなかった。直江はちゃんと自分を信用しているし、同じくらいちゃんと心配してくれる。
「明日さ、だからバイト休みとってんだ」
高耶の言葉を待つように、直江は黙っている。その沈黙がとても心地よい。
「そんでさ、ツーリング、夜からバイトはいるやつもいるから、朝のうちに出ちまって夕方遅くならないうちには戻ってくるんだ」
『―――はい』
会話の先を予期したみたいに、直江の声がふっと明るくなる。
「おまえさ、たまには早く会社あがれない?」
普段デートの段取りをするのはもっぱら直江のほうで、自分からというのはまずなかった。恥ずかしくてたまらないけれど、ここで尻込みするわけには行かない。
「おまえんちで待ってるから。会社、定時って…6時? 無理?」
『大丈夫です。ちょうどいま資料の直しにかかってるので、家で仕上ればいいですから』
大丈夫じゃなくたって大丈夫だといいそうな男なのだけれど。そこのところは綾子から『今日明日はホントに家でもできるような仕事をしてるはず』と情報を得ているので、高耶は罪悪感を覚えずにすんだ。
「そんじゃ、明日あえるよな。よかった」
『高耶さん』
「最近、週末しかあえなかっただろ? だからオレ…ちょっとだけ寂しかった」
甘えるようにそういうと、直江の気配が和らいだ。彼の苛立ちや疲れをいくらかでも軽くできればいいと、高耶は思う。
「待ってるな」
『7時ころには帰れますから。……どこかに食事にでも行きましょうね』
「ウン」
自分の心は直江の優しさでいつも癒され満たされているから。たまにはお返しができればいい。
「明日、な」
『楽しみにしてます』
通話の切れた携帯を、直江はきっとしばらく握り締めているのだろう。
高耶は自分も両手のうちに、惜しむみたいに受話器を包み込んだ。


定時で上がるという約束をたがえる男ではないから、直江はきっともうじき会社を出てくるはずだ。
昨日の会話を思い出しながら、高耶がビルの入り口を眺めていると、メールが入った。
綾子からだ。

<いま帰ったところ。バイトさんも一緒>

6時をわずかに過ぎたばかりだ。
自分の男の律儀さに感心しつつ携帯をポケットに突っ込んで、高耶は次第に夕方の色を濃くして来る空を見上げた。

待つというほどもなく、自動ドアをくぐり抜けて直江が外に姿をあらわした。そのすぐ後ろに若い女性がくっついていて、それが例のアルバイトの学生なのだと見当がついた。
浅岡、と綾子が教えてくれたその女性は一見おとなしやかな印象のかわいらしいひとで、背の高い直江を振り仰ぐようにして一生懸命なにか話しかけているようだった。ようやく一緒に帰ることができて、舞い上がっているのかもしれない。
だが直江のほうはまったく彼女を意に介さず、5段ほどの階段を真っ直ぐ歩道へと降りてくる。
瞳細めるようにして高耶はそれをうかがっている。

浅岡は直江のあとを離れずに追いすがっていたが、声をかけても埒が明かないとみたか、思い切ったように直江の腕を掴んだ。直江はしかたないといった様子で足を止めて彼女を振り返り、二言三言言葉を交わすと、すぐに小さく首を横に振った。

(ったく、モテモテじゃん、オジサン)
高耶はバイクを降り、ゆっくりと二人のほうに向かって歩き出した。

浅岡になにか―――一緒に帰るつもりも、おそらくは彼女が望んでいるように食事やお茶をするつもりもないと―――話していた直江が、ふいと顔を上げた。
高耶は思わずその場に立ち竦んだ。
茶色のかかったきれいな瞳が、びっくりしたみたいに見つめてくる。

なんでわかったんだろう。
まだかなり距離があるのに。

ばつが悪いような気がしたが、直江は即座に浅岡を振り切るようにしてつかつかとこちらに近づいてくる。
迷っているひまなんてない。
高耶も直江に向かって歩きだしながら、片手を挙げた。

「よう」
「―――高耶さん」

直江の声に狼狽が聞き取れて、高耶はなんとなくいい気分だった。
直江の後を数歩遅れてくっついてきた浅岡が、大きな男をタテにするみたいにして高耶を見上げ、不審の色を瞳に刷く。どう見たって高校生ほどのこの若者と直江とが知り合いだとは思えないのだろう。
「直江さん?」
説明を求めるみたいに語尾を上げて直江を呼んだ。
直江がなにか言う前に高耶が先手を打った。

「なあ、このヒト誰?」

『このヒト』呼ばわりされた浅岡は、瞬間ぎょっとしたように目を見開いた。
「直江の知り合い? だったらこんにちは。ハジメマシテ」
無作法なほどぶっきらぼうに、だがきちんと挨拶して、高耶は取ってつけたように微笑んだ。
「あ…の、私」
助けを求めるように浅岡は直江を見上げた。だが直江はそちらに目線を向けもせず、ごく事務的に言った。
「会社でアルバイトをしてもらっている方です」
「そう」
支配者みたいにそう返すと、高耶は二つ持っていたヘルメットのひとつを直江に向かって突きつけた。今度は直江が目を瞠る。
「これは?」
「ツーリング。帰ってくんの早かったから、わざわざ迎えに来てやった。ニケツで帰ろ」
受け取ってしまったヘルメットをじっと見ていた直江だが、高耶の言葉を聞くとたまらないように目尻下げて笑い出した。

高耶は知っていてここにきたのだ。
浅岡のことを。
直江を助けるために、わざわざ来てくれたのだ。
(高耶さんに迷惑をかけるつもりはなかったのに)
それでも嬉しい。
照れ屋で恥ずかしがり屋の彼が、二人の関係を誇示するみたいにしてくれたことが、信じられないほど幸せだ。

余計なお世話とお膳立てをしたのが誰だか、直江にもよくわかった。
(まったくあいつはお節介な女だな)
思う傍から口端が笑ってくる。

「…なんだよ」
一人悦にいっていたら、高耶がじろりと睨みつけてきた。
「いえ。バイク、私が後ろなんですか」
「あったりまえだ。オレのバイクはほかのやつにゃハンドル握らせねえよ」
「なるほど」
クスクス笑いながら、直江は浅岡に向かってヘルメットを振って見せた。
「というわけで、今日は彼と帰ります」
「あの―――でも、そのひとって直江さんの」
食い下がる浅岡に、なるほど天然系はしつこいなと半ば感心しながら高耶はニンマリと笑ってみせた。
「オレ? 直江の? エート……なんつうか」
一歩近寄ってきた直江の胸のあたりをとんと拳で叩いて
「バイクの後ろに乗っけんの、こいつだけってのか」
直江は照れているのをかくすみたいに微笑みながら大事そうにヘルメットを抱えこんでいる。
「惚れてるワケ、こいつに」
「高耶さん」
高耶の肩に直江はそっと手をかける。いとおしげなまなざしは高耶の言葉をそのまま肯定していた。
「行きましょう」
絶句して直江と高耶を見上げている浅岡に慇懃無礼に会釈した。
「それでは失礼します」
「イコ」
くるりと踵を返すなり、高耶は直江に先んじて歩き出す。直江も慌ててそのあとを追った。建物の曲がり角、植え込みのある柵の脇に、邪魔にならないよう、よく手入れされたバイクが停めてあるのが見えた。
足早に愛車のもとに戻った高耶は、絵に描いたようなきれいな動作でシートに跨った。
「乗れよ」
そっけなく顎で後ろを指し示す。
一瞬だけ、直江は足を止めた。
ごく普通のスーツ姿の自分が、10も年下だろう彼の背中にしがみつくのはなかなか珍しい光景かもしれない。
通りすがりに見るとはなしに視線を投げていく人もいるし、浅岡もまだあの場に立ち尽くし、様子を窺っている。
「乗んないの?」
誘うみたいに高耶がエンジンをふかした。
直江は大きく息を吸い、吐いた。
「乗ります」
もう遠慮せず高耶の後ろに座り、ヘルメットをかぶった。息苦しいような圧迫感を憶えたけれど、顔が見えなくなると思うとそれはそれでいいような気がした。恥ずかしいとはいわないが、やっぱりいくらか照れくさい。

「行きましょ、高耶さん」
彼の腰に手をかける。よく知っている身体のはずなのに、どうしてだかどきりとして手を離しかけると
「ちゃんとつかまってろ」
高耶が笑いながら怒った。
「はい」
言われたとおりちゃんと掴まる。触れた部分が熱いのは自分の掌のせいなのか彼の肌のせいなのか、直江は真剣に考える。
背中が震えて、高耶が笑っているのがわかった。
ゆっくりと歩道を抜けて、車道にバイクを出す。車どおりのそう多くない道に乗り入れると、高耶は一気にスピードを上げた。後ろの直江が、ごくごく自然に自分の背に身を預けるのを感じながら。



夕暮れていく街。
明るく輝いていく街路灯。
風を掴むように、断ち切るように、高耶は危なげなくハンドルを切る。
「なあ、このまま、海かなんか行くか」
信号待ちの合間に、高耶が聞いてきた。
「いいですね」
彼の背中を見ながら答える。
「どこへでもつれてってください」
直江の思っているよりずっと、高耶は一人前の男なのだと、今日の直江は思い知らされたような気分だった。
きっともっと頼ったってもたれかかったって、彼はビクともしないのだろう。
「このままずっとあなたにしがみついていたい気分だ」
白いTシャツ、肩の辺りが小さく揺れた。
「ずっとしがみつかれてたら暑苦しくってたまんねえよ」
もうじき信号が変わる。彼の腕に力がこめられるのがわかる。
高耶の腰にかけた手の位置を、直江は確かめるように動かした。
「たまんねえな」
高耶が擽ったそうに笑った。
「海、行きますか?」
「やっぱやめとく」
「え?」
直江の聞き返す間もないまま
「早く帰ってふたりっきりになりてーし」
早口で高耶が言うのと同時に信号が青になり、バイクは待ちかねたように交差点へと走り出た。



そのあとは直江のマンションに帰りつくまで、二人はひと言も言葉を交わさなかった。
ドアの鍵開けるなりもつれ合うようにして部屋に入り、貪るみたいにして唇を合わせた。

(よかった)

高耶は心のうち、ほっとため息をつく。
直江の不機嫌は一気に解消したかのようで、熱を帯びた甘い瞳で高耶を射竦めながらTシャツを剥ぎ取り、痛いほどきつく鎖骨に歯を立ててくる。
「ッ」
とっさに逃げを打とうとしたが、思い切り抱きすくめられた。男は高耶を押さえ込んだまま器用に上着を脱ぎすて、しなやかな指先でネクタイを引き抜く。なんだか恥ずかしくて隙を見て腕を抜け出そうと身を捩ると、いきなり乳首をきゅっと摘み上げられた。
「あ!」
「高耶さん―――」
かすれた声は普段より低く響いて、それを聞いただけでドクリと身体の芯が蕩けだす。
「好きです」
大きな手がジーンズ越し尻を撫で上げ丸く揉みあげた。指先が硬い生地を押し上げるように高耶の秘部をなぞり上げ、高耶は驚いて目を丸くした。
「まっ…、ちょ、っ、風呂」
今すぐここで行為に及んでしまいそうな男の勢いに押しとめようと声をかけるが
「このままでいいです」
平然と答えられてしまった。
「よくねぇ、汗かいてるし」
「あなたが誘ったのに―――乗れよ、って」
わざとらしく拗ねたように睨み付けてくるから、頬赤くして
「バカ」
とだけ返した。
「バカだけど、惚れてくれてるんですよね」
「―――しるか、バカ」
こちらも拗ねたみたいに唇尖らせるのをみて、直江は嬉しそうに笑いながら高耶を抱き寄せる。
「私も惚れてます。あなたに」
もうどう逆らってもしかたないと、高耶は半ば観念し半ば期待しつつ、直江に身を任せるようにして風呂場に連行されていった。





翌日から、会社でも煮詰まったようになっていた直江の態度は一変した。

(すっかりご機嫌になっちゃってまあ)
直江の様子をこっそりと窺いながら、綾子はあきれている。

色男はニコニコと零れ落ちそうな笑みを浮かべながら、人の分の仕事まで引き受けかねないやる気満々オーラを振りまいている。あの分では三時にはケーキでも差し入れすること間違いないだろう。
(うちのチ−ムの分まで買って来てくれるといいけど)
あとで要求しておこう。
ついでにさりげなく浅岡の様子を確かめると、諦めたのか熱が冷めたのが、すっかりおとなしくなり用がなければ直江のそばには近寄らないようだ。
失恋の原因が男の恋敵の存在発覚では、ショックも大きかったのかもしれない。
(かわいそうなことしたかしら)
いやいやそんなことはない。
綾子は肩を竦めた。
直江の方だってずいぶん悩んだ上に、社屋の前でとんだ愁嘆場を繰り広げたのだから、お互い様ということだ。
もっとも、幸いなことにあの騒動を目撃したものはないようで―――目撃しても黙っているのかもしれないが―――おかしな噂もいまのところ綾子の耳には届いていない。
(騒動どころか、直江にしてみたらあんな嬉しいハプニングはなかったんだろうなあ)
内気な高耶からの逆ナンパもどきの言動(とおそらくはその後の密事)に浮かれきってツヤツヤしている男が、こちらの視線に気付いて手を振ってくる。
綾子はいやなもの見るようにあからさまに目をそらして自分のデスクにもどった。

(とにかく。これでこっちも落ち着いて仕事ができるわ)
たまった書類をばさりと手元に取り上げた。
実は今回の騒動でいちばん被害をこうむっていたのは
「直江さんが怖くてたまりません、門脇さんお願いですなんとかしてください」
と直江チームのメンバーからSOSがきたり
「俺は切れるもう絶対に切れるあの女に切れる! 高耶さんを愛している!」
と顔をあわせるたび直江にグチを零されたりしていた綾子だったのだ。
(コーヒー代×30じゃ足りないわよ、直江)
不吉な微笑を口元に浮かべ、綾子は仕事に取り掛かった。

綾子は作戦勝ち、直江はご満悦、そしておそらく高耶もまんざらではないであろう、めでたしめでたしの夏の一日であった。

オワリ





ヒロセさまからコメントをいただきました。

***

直江が高耶さんとタンデム…そんな妄想から生まれたお話です。
高耶さんにしがみつく直江、いいジャンってことですね。
あと、かっこいい高耶さんを目指してみました。
でもどっちかというと綾子さんがかっこいいかもです。
こんな実験的作品(?)をキリリクにしてしまいまして申し訳ない。
キリバン踏んでくださったこうれんさま 読んでくださったみなさま、ありがとうございました。

***




忘れもしない7月6日、ヒロセさま宅で50万打を踏みました。
リクエストを受け付けるというお言葉に甘えてずっと気になっていた「アイコイ」の続きをお願いしたのですが。
頂いたお話は、もうもうもうもう!!!(悶絶)
可憐でオトコマエな高耶さんにくらくらしっぱなしでした。
こんなステキな実験なら、ヒロセさま。もうどんどんしちゃってくださいっ♪
なんとお礼を申し上げてよいのか、言葉に尽くせぬぐらい嬉しいです。
本当にどうもありがとうございました。

そして、ヒロセさまのお作を探しにきてくださったみなさま。
長屋の住人が富くじ引き当てたというか、ト〇ガ王国がワールドカップ招聘しちゃったよ?みたいなこの状況…(笑)
こんな辺境の拙宅までわざわざお運び頂いて申し訳ありません。どうもありがとうございました。
でもでもでも。
シアワセでしたよね?ね?ね?
というわけで感想等、どうかbbsまたはヒロセさま宅へお寄せくださいませ。よろしくお願いいたします。




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