必死、の声。 「ちがっ……!! 誤解すんなっ!!」 面倒だったので――外来者は受付をちゃんと通せだの何だのと、なりすましがミイラ、のいいかげん教員もどきがうるさいので――裏門をひょいと乗り越えて敷地のはしっこを歩き始めたら、小さな倉庫に駆けこむ小柄な女の子とそのあとを追ってきた男子とが視界をかすめた。その目を惹く髪色で、ああ、と気づく。 この前あいつを迎えに来た時、一緒にいた二人だ。あの二年生の男子とは、今もこの学校に残る「頭髪証明」なるトンデモ規則がきっかけで、知り合いになったと言っていた。 柔道着に裸足……じゃなかったか? んであの必死セリフ。 ……なかなかベタな展開のようだ。 青春だなぁ、と思わず笑って。 そうか、出会った時、あいつも二年だったから、一年前のあいつみたいなもんか、と思う。 適度に生意気、適度に傲慢、適度に自意識過剰で適度に猫かぶり。 なかなか上手くやっていた十七才。 突然降りかかってきた非日常に驚きながらも、呑まれるものかと踏み止まって親友と自分を取り巻くこの世界を護ろうと振り向いた瞳。 少年の無謀ではなく、魂に刻まれた「戦い狎れ」がさせたことだと告げた時の猜疑のまなざしに、どれほどオレは――。 傷ついたというより、湧き上がった怒り。 今はそれがどんなに間違った思い上がりだったか判るけれど――あの時オレは。 見いだせた喜びより、何もかも忘れて、まっさらになって当たり前の顔で親友の名を口にするおまえに。 報復かよ、と。 ああ、だけど。 そのあとオレがやってきたことは。 傷つけられただって? 冗談じゃない。 ――いやまあ、このままだったら、それはそれでいい人生じゃないかなーっと。 過ぎた夏のあの日。笑うように言った千秋――あいつの、センセイ。 松本の高校生。 生まれたときから傍にあった川のせせらぎを、この山々に囲まれた清涼な土地を愛してきたこども。 「親」になるには、欠落の多すぎた男女の間に生まれたことは、物質的な不足こそなくても恵まれたものとは言えなかっただろう。 けれどそんな中でも、補おうと注がれた祖母の愛を受け止めて、弟と支えあって成長してきたこども。 「正しい道」を探りながらまっすぐに。 その道を歪めた。 彼の忘れた――封じられた過去から、彼の人生へ彼の魂へと手を伸ばし、その胸を抉って。 血にまみれた縁の糸を引きずり出し、再びオレに繋いだ。 ぼんやりと校庭の隅の銀杏に寄りかかっていると、左目の端を少年と少女が歩いていく。 夕陽の色に似た髪の背の高い少年、柔道着の彼の肩にも届かない小柄な体育着の少女。 ふっと少年の右手が動いて、少女の左手をとらえた。 ほんの少しだけ、二人の間が近づいて、一歩一歩、歩幅の違いを確かめ、合わせるように。 と、少年が飛び上がった。裸足の右足をつかんで、あわあわと跳ねている。少女の身体が笑いに揺れて、彼女は再び少年の手を取り直して走りはじめた。うわあぁ、と悲鳴のような声をもらして、つま先立ちでそれについていこうと走る少年と、全身で笑いながら先導していく少女と。 あんな青春もあったかもしれないな。 オレに見つかっちまわなければ。 オレがおまえに手渡したものは何だっただろう。 惑い切り裂かれる修羅の道だけ、か。 なあ、それでも―― 取り返したかったんだよ。 オレは樹から背中を離した。この場所がいけない。闖入者をじわじわと責める。 あいつから奪い引き剥がした平穏を見ろと。 明るい校庭、雨のしみのある外壁の校舎、窓辺に揺れる褪せた色のカーテン。先達の植えた記念樹、レンガに囲まれた花壇、古びたゴールポスト。 二年生なんて、一番いい時期だったのにな。 ゆっくりと裏門へ戻る。 足元の砂が嗤う。 (そうだよ、出ていきなさい) (君がここへ来なければ「私たち」のあの子は、自分の心だけで前へ進めただろうに) 錆の浮いたクリーム色の鉄柵をつかんで、よっと身体を引き上げた。 「不審者がいますよー、千秋修平せんせー」 棒読みのような言葉を投げつけられて、うっと手が滑りそうになった。 柔道着姿のあいつが、腕を組んでオレを見上げていた。 「や……教師呼んでも別にいいけど、そいつ以外にしてくれ」 ふうん?とやつは顎をそらした。 「門にまたがってるかっこって笑えますね」 オレは鼻を鳴らした。 「柔道だったのか。でもさっき見かけたこないだの二年もそれ着てたぞ」 「合同だったんです。ちなみに彼は俺が瞬殺しました」 なんだ、その得意げな顔は。オレは門をまたぎ越して外へと下り立った。カシャンという音に何か言い渡されたような気持ちになる。 (この子は「私たち」の生徒だよ) 門から離れようとした時、柵の隙間から、ぐい、と左腕をつかまれて、オレの肩は強い音で門を揺らした。 「なに……!?」 「なに落ちこんでるんですか??」 強い言い切りに鼓膜を叩かれ、ぎょっとする。 「え、ちょ……っ」 「おどろ線がぐるぐる渦作ってて、この辺一帯暗いんですけど!!」 は、あ?とオレは柵の間の「眉間に縦ジワ」に目をすえた。 「なに……なに言ってんだ、落ちこむだ、暗いだ! オレは悩み多きコーコーセーなんかじゃないぞ!?」 やつは半眼になった。 「確かにオッサン手前ですけどね」 んなろ!! 「でもクラい。どーせ自分で足元に穴掘って、自分で埋めてるんでしょうけどね」 「おまえ、舌はまるっきり元通りだな!!」 オレは、ぎり、と歯噛みした。 思いがけず、やつが笑う。 「ええ、もうすっかり」 息が止まりそうになる。 「身体もすぐ追いつきます。もう何も心配はないんです」 少し小さくなった輪郭の中に浮かぶ笑みは、ただ優しい。 オレは右手を柵の間から差し入れて、やつの左肩をつかみ引き寄せた。 「肩が薄い」 オレは多分泣きそうな顔をしている。 「少し筋トレの予定」 笑うとび色の目。 「でも体術は筋肉じゃないですからね。言ったでしょ、後輩瞬殺だったって。まあ、彼は空手はやったことありますが、柔道はトーシロだから」 そのうぬぼれ満載の小僧っ子の口調が、ふと間にある門の存在を意識させた。 「あの日、オレがこの門を越えなければ、おまえは松本の普通の高校生でいられた」 右手から力が溶ける。 「満身創痍の十七才なんかにならずにすんだ」 やりきれなさが戻ってくる。心の芯を凍らせる。 オレは右腕を柵から抜いた。 「学校、が、この門がオレに言う。うちの生徒に何する、何した、って」 空を見上げる。まだ梅雨の気配は遠い青。左腕をつかんでいた手が離れたのが心に痛い。 がしゃ。がずごずがず。がざざざざざ。 へ?? オレは金属のこすれ合う、じいさまたちの咳みたいな音に、顎を引き下げた。 やつが門の内側に渡してある横棒をずるずると引いて、はずし――開いた。 「どうぞ」 「え、ちょい、おい、だってカギが!?」 橘義明は、真鍮色の古びた南京錠を指にひっかけ、くるりと回して見せた。 「引っかけてあっただけ」 口を開けたままのオレの目の前に持ち上げ、ほーらほら、と揺らす。 「この時間は、購買部のお昼の追加で業者さんが来るんで、はずしてあるんですよ。みんな知ってます」 「お………ちょい……おい」 オレは額を押さえた。くい、と左手を引かれたが、もう逆らう気力もない。 オレを中へ入れて、学校の門はまたカシャンと閉じた。 門って開くもんですよ、笑いに震えた声、取られた左手。 ああ、もう何だか――――。 (ようこそ) (ようこそ、この学び舎へ。 「私たち」は――開かれておりますよ) 了(‘10.7.5)
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