もう、うんざり、という声が、下の踊り場から。 「最短でいっぱしのオトナってやつになりたいんだよ。もう、なりふり構わずやるさ。あいつと、ずっといるためなら」 どかどかと上がってきた足音。図書室の中に入っていようか、と思ったが、その暇もなかった。 上がってきた彼と、もろに目が合った。 明るい色の髪の下、寄せられた眉間のしわも分からなくなるほど赤面した二年生の顔は、本物より早く訪れた夕焼けのようだった。 約束していたのだから、彼とここで会うことは不思議でも何でもない。ただ向うとしても、こんなに早く俺が来ているとは思わなかっただろうし、俺にしても用事が思ったより早く片付いたので、さっさと図書室の前まで来たものの、階段の真上の風の動きが心地よくて、ああ、梅雨明け間近なんだなぁ、なんてぼんやり窓を見ていたんだ。 「これなんすけどね」 なじみの図書室。でも今日はいつもの自習席ではなく、グループ学習用の小卓に着いて、彼の取り出したテスト用紙を見る。 「ああ、飾磨先生お得意の、だな。解説あったろ?」 後輩は溜息をついた。 「途中でぽんぽん横道それるんで、一部落としたみたいです」 「相変わらずか。それと……まだ入れ歯直してないのかい?」 うー、と後輩がうなずくのへ、同情する、とつぶやいて紙面に目を落としたが。 ……たが。 「――――先パイ」 目つきの悪い二年の視線が痛い。 「……口元、ひくついてマス」 うわ、もうダメだ。 「悪い」 左手で口を押さえてみたが、ああ。 ダメだ、わ、笑っちゃ。 「……大宣言だったね。真偽を問うメールで、ケータイ、パンクするかも」 「電源落としてますよ。もう、いちいち遊び断るの、めんどくなって」 「なんとでも言え、って?」 むっつりうなずく彼の顔は真剣だ。耐えろ、俺。こそばゆいけど笑っちゃいけない。 「で、今日は、そのちびっこい相棒さんは?」 開き直ってしまえ、と目を上げる。後輩の顔に、また「夕焼け」のきざし。 あー、と頭を掻く仕草に、あ、似てるな、とふと気がそれる。 「うちの妹たちと約束してんです。その……今日、俺、誕生日なんで、うち、イベント好きなんで、宴会の仕度です」 「へえ、おめでとう。あとで自販でよけりゃ、何かおごる。で、十七でもう人生決めてる、と」 彼は頬杖をついて、消しゴムを手の中で転がした。 「六年で卒業して国試通っても、一人前になるにはもっともっとかかる。となれば、せめて浪人はしたくない、ってとこにポイント絞るしかないっしょ、今は」 「医院、継ぐのかい?」 彼は、ちらっと笑った。 「いや、できれば救急医療をやりたいと思ってンです。身体に自信があるうちは」 「それはいいね」 彼は真顔になって聞いてきた。 「先輩は全方位万能型っしょ。理数は考えないんすか?」 買いかぶりだよ、と笑ったけれど、彼には話してもいいか、と思った。 「俺の夢は貧乏学者になること。史学方面の」 へー、と素直に驚かれて、ちょっと気恥ずかしい。 そうだ、彼に聞いてみようか。 「誕生日、何が欲しいかとか聞かれたかい?」 後輩は、はー、と溜息をついて、右手をぱたぱたと振った。 「うちはサプライズ第一なんで……帰るのが怖いっす」 うーん、これは照れじゃなくて心底怯えてるな……。 会話の流れとして、と思ったけど、結局聞けなかった。 ほぼ三十才(まだ二十九だ、とぶすくれそうだが)の男性には、何がいいだろう、なんて、十七才ジャストの後輩も困るだけだろうし。 言ったとおり、昇降口の自販で彼にブラックを(相棒さんに、といちごミルクを付け加えたら、思いっきりしかめっ面された)進呈し、バス停で別れた。 彼の方のバスが出てから、ふと携帯を出してみると留守電が入っていたので、列を離れて耳にあてた。 『んっと。ねえ……姉がケガしたってんで、ちょっと行ってくる。あ、そんな大げさなもんじゃないんだけど、顔出しとかないと……根に持つタイプ?』 疑問形にして共犯にしないでください。 でも、口のはしが笑ってしまった。 『ま、すぐ戻るから』 って、あなたの家はあっちでしょう、本当は。 『………』 ん? 『……顔、見てから出たかったな』 ばっ!! ばし、と口を押さえてしまった。 うわ、やば……。 耳が熱い。 『すぐ戻る』 強く言い切って留守録は切れた。 うわ。 俺は携帯を握りしめたまま、行ってしまったバスのテールランプを眺めていた。 ああ、まあ。 溜息をついて携帯をしまう。 ま、数日はこそこそせずに贈り物さがしができるってことだよな。 俺は熱い頬と耳をこすって、駅前に向かうバスに飛び乗った。 了(‘10.7.22)
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