されど静かに舞い落ちる 〜続・「X・DAY−(マイナス)8日」 え……っ。 松本駅前のロータリーに並ぶ駐車場のはしで。 母や姉(怪我をしたというから見舞いにと出向いたのに、右足ギプスで無敵状態ってなんなんだ!)に色々押し付けられた品物が後部座席で崩れたので、様子を見ようと止めたのだが、ふと目を向けたバスロータリーに制服姿のあいつを見つけた。 あ、とシートベルトをはずそうとした手が止まる。 駅の方へと向いた横顔が笑いながら、右に傾く。やつの肩よりもだいぶ下、に小さな黒い頭。それも笑いながら仰向いている、同じ夏服の女子。 ロータリーから出て、駅への歩道を行く二人の背中。 ぴょんぴょんと跳ねるような女の子の様子に気づいたのか、やつの足取りが少し緩くなった。 並んで――高さも大きさもだいぶ違うが――歩いていく白いシャツの高校生ふたり。 すれ違った同じ年頃の少女たちが、肩越しに彼らを振り向く。 駅を包み込んだ建物の中へ、と、左に折れた二人が見えなくなるまで、俺はシートベルトに手をかけたままだった。 あれは。 あの子、だったよな。あの派手な頭の二年生と一緒にいた小柄な少女。後輩だ、としか聞いてないが、この前、校庭で柔道着姿の色頭と手をつないでいたあの。 でも今は、ふたり、だった。あの少年はいなかった。 笑いあって。 足取りを合わせて。 「そりゃ、そういうこともあるだろうよ」 馬鹿か、オレは。 オトメかよ。 ああ、くさくさするなあ。夏がいけねぇ、夏が。 生まれた季節を呪うなんてバチ当りだわよ、なんて昔ねえちゃんに言われたっけな。 ……そんなこと言い出したら、オレなんて一年中全部アウト、だよなぁ。 「……だっらしねぇ」 うー、と額を押さえる。 自分に呪文。封印の呪文。 今見たことは口にするな。間違ってもやつに聞いたりするな。 しょーじょまんがみてぇなおろおろをしでかすな! 2. 封印の呪文は重苦しい。 あの小さな古い家に戻り、冷蔵庫や食料庫に諸々を収め、まだ残っていた袋を開けたら、洗濯洗剤だの入浴剤だのシーツだのスリッパだの……オレは嫁に行った娘か!?と毒づいてみながら、携帯に伸ばそうとする手を止める。 何、気にしてんだ。 なんてことないだろ。 胸の中で言ってるうちはいい。 だんだん口の中でむぐむぐ言い始めてる自分が嫌だ。 「ああ、もう、ほんとに馬鹿じゃね??」 綾子か千秋がいたなら、もう少し、なんてことない、ってポーズにも身が入るんだろうが、あいにく二人ともそれぞれの用事だ(千秋については熱心な教員役、が本業を食い始めている気がする)。 なんか凝った料理作ってみるのはどうだ? で、めどがついた頃に、来ないか?って何気なく。 そこで思わず頭をかきむしる。 ああ、もうこのオトメな思考が思考が! うーうー、唸って出た「妙案」。 「風呂」 たっぷり長風呂して、ぼーっとしろ。それからビールひっかけて、おもむろに「戻ってきてんぞ」って電話…………メール、にしとくか……? 「それは風呂で考えよ」 というわけで、オレは、リフォームしたのに、なぜかまた木の小判型浴槽、という昔ながらの風呂を立てに行った。 押し付けられた荷物の中から取り出した入浴剤をずらりと並べ、慎重に選ぶ。 切れていた石鹸もじっくり選ぶ。 やたらに時間をかけて入浴。 うずうずしている気持を押さえつけるのにはぴったりだったが、だからといって心が静まるわけではない。 浴槽の中で膝を抱えるのはサイズ上仕方ないのだが、このポーズから逆に暗示にかかる。 すれ違ってた女子どもが振り返ってたよなぁ。 いや、実際可愛い眺めだったさ。 すいっと姿勢のいいあいつと、小柄で華奢な清潔感あふれるあの子。 全然べたついたところはなかったし、あいつが色頭後輩を好きなのはよく知ってるから、邪推なんておかしい。 とはいえ。 「見なきゃよかった……」 ふとつぶやいて、ずぶ、と湯の中に頭まで浸かる。 なに言ってんだ、オレ!? ん?と耳をすませる。 「……あれ?」 戸口がからりと開かれる音。玄関の方で聞きなれた声。 「え……千秋せんせ?」 足音がとんとんと近くなり、脱衣所の外で。 「え、えーと……綾子さん、だったり?」 「オレだ!」 慌てて浴槽の中で立ち上がり、叫ぶ。 「え?」 「入っていいぞ!」 脱衣所の戸が開く音。曇り硝子の向こうに白いシャツの姿がぼんやりと浮かび上がる。 「え、あれ? どうしたんですか? 途中で何かありましたか?」 「いや、実家はちゃんと……ああ、かまわないから開けろ」 ざぶんと浴槽にひっこむ。 からからと硝子戸が引かれ、栗色の頭がのぞく。 「あれ、ほんとにだ」 目が笑うが、ん、と眉が寄せられた。 「でも、お姉さんのお見舞いでしょう? 昨日戻って、今日の……いま?」 「入院してるわけじゃねえから、顔だけ見てきた」 めっちゃ嫌味を言われたことは黙っとく。 「駅前で『彩高』が安かったので」 オレの好きなペットボトルの緑茶の銘柄。 「冷蔵庫に入れておこうと持ってきたら、何だかいっぱい食材が入ってるんでびっくりしたんです」 駅前。 「……駅前、行ってたんだ」 「ええ」 あいつは、ふっと目をそらした。 「何とか押し込みましたけど、冷えてないから……ああ、出たらビール、ですか?」 そのつもりだったけどな。 「……夕飯、付き合わねぇ?」 困ったように笑う。 「すみません、今日は弟のレポートを見てやらなくちゃいけないので」 静かに閉じられる硝子戸。 鍵かけていきますね、と声が遠のく。 ……お、ま、え。 まーだ気づいてないのかよ! おまえの弟はな! レポートの手伝いなんてまるで必要ねえんだよっ! あいつは悪魔的に頭が切れるんだよ! 千秋のヤツが地域の教育連絡会でいろいろ聞き込んでんだよ! 飛び級があるなら、すぐさま大学、いや、大学院に押し込んだ方がいい、っておまえの弟にやりこめられた教師が、きいきい言って回ってんだよ!! 「兄の方は驕らない穏やかな努力家ですので」なんて千秋のヤツ、鼻高々で言ってやった、なんて! 綾子と、きゃー♪って言い合ってる図なんて、どこの親馬鹿父母だ、お前ら!で。 ああ、もう昔から身内に甘すぎるんだよっ! 浴槽のふちに顎を乗せる。 目ぇそらした。 駅前、って言ったら。 オレは、もう一度ざんぶりと浴槽に頭を沈めた。 3. 七月二十三日は、松本でさえ蒸し暑かった。 先週は、長野に来ていた片倉小十郎と、色部さんを交えて情報交換し、周辺地域を一緒に回って過ごした。 朝、片倉と一緒に東北を回ってくるという色部さんを見送り(道の駅で取れたて野菜をどっさり二人に買ってもらった。誕生日祝い、だと)、古い小さな家に戻ると。 あいつが白いTシャツにカーキ色のハーフパンツ、なんて珍しい格好で、玄関前で打ち水をしていた。 「あ、お帰りなさい」 車を降り、ん、と手を上げた。 「千秋先生は、部活責任者の代理で学校です。綾子さんはケーキを取りに」 「栄光堂か? まさか29本もろうそくもらってこないだろうな?」 オレたちはちょっと真顔になった。……やりかねん。 バケツを逆さにして水を切り、縁台の下に伏せたあいつは、あ、とそっちから部屋へ上がった。 「お茶いれますね。それから――」 奥へと声が吸い込まれた。 「うわ、すごい野菜ですね!」 「ああ、片倉と色部さんにもらった。誕生日祝いだと」 台所、一応ダイニング、のテーブルについたオレの前に、涼しい鉄線の花の透かしの入った冷茶グラスを置いて、向かいに座ったあいつは、かしこまった様子でそっと青い紙で包まれた箱を取り出した。大き目のマグカップ…ぐらいの大きさか? 「えーと……お誕生日、おめでとうございます」 照れくさそうな表情に顔がゆるんじまう。 「ありがと。開けていいか?」 そうしてください、と熱の入った様子に驚くが、千秋も綾子もいないうちがいいんだな、と、恥ずかしがりの性分を理解する。 包装を丁寧に開き(この辺は小さい時から仕込まれている)、白い紙箱を開け、緩衝材にくるまれた丸っこいものを取り出す。 「え……」 スノウドーム、だっけか? 水に満たされた小さなジオラマの世界。振るとキラキラと小片が舞い上がり、世界は雪景色に、が基本の。 でもこれは。ピンク色……? ふわっと動かすと。 ふんわりと、もやったような水色の空。 手前に桜の木の連なり。その向こうに遠い城のシルエット。 その上に桜吹雪が―― よみがえる いくつものさくらのきおく ほんろうされつづけた さいしょのじんせい さまざまなきもちで みあげた さくら それから よきしなかった そのつづき たくさんのたくさんのさくらのおもいで ほとんどが いっしょだった その そんざい なくした なくしたんだとしらされた ななさいのはる おおぎたかや、というなのオレは さくらのしたでぼうぜんとしていた じぶんの せい じぶんの せいで なくした 涙を流す資格さえもないんだ。 「高耶さん!?」 うあっ? がたんと立って、テーブルを回ってきたあいつの手が肩に触れて、オレは自分の手の中のそれに落ちている雫に気づいた。 「あ、え?」 うわぁ、なんだ、この蛇口全開状態は。あわてて手渡されたタオルで顔を……んっ!? 「わわ、これ台所の手拭きタオルだろ、臭うぞ!」 「え、あ」 あたた、えーっと!と引き出しを開けて、洗った予備のタオルを渡してくれた。 「こっちは……大丈夫、ですか?」 「んー、まあな」 おひさま信仰の綾子とこいつのせいで、洗い立ては臭いません。 「あの、ええと」 途方にくれたような声にオレは慌てた。 「ちげえよ」 タオルでそっと手の中の世界を拭う。 「すっごく気に入った」 もう一度しっかり振ってみる。 ちらちらはらはら、桜が降る。 肩の近くにあった手を引いて、隣に座れ、と促す。 遠い城。どこのものともしれないけれど、逆にどの城とも考えることができる。 「ほんとは、松本城だったんです。でもなんだか、こう……はっきりしない方がいいな、って思って、替えてもらったんです」 え? 「これ、既製品じゃないのか?」 やつは、にこっと笑った。 「友達の兄さんが作家なんです。彼女が彼、ほら、あの二年生の」 明るい髪色のあいつですよ、と。 「あいつの誕生日に何をあげたの、って聞いたら、映像を見せてくれて」 ちょっと待ってくださいね、と椅子を立ち、携帯を持って戻ってきた。 動画を開いて。 「ほら」 携帯の小さな画面の中で、少年っぽい手が同じようなドームを振る。でも今オレの手の中にあるそれと同じく、その中の風景は「雪景色」ではなく。 くっきりと青い空、白いもくもくとした雲。ひまわりの咲く地上。 その上にキラキラと降りそそぐのは――夏の光、そのもの、か? 「あいつに似合うでしょう? 兄さんに特別に作ってもらったんですって」 あいつに言わせると「キセキ」なんだそうです、とやつは笑う。 「正式に、将来を見据えて交際してる、って言いに行った時、目で殺されるんじゃないかと思ったんで、いくら妹の頼みでも、自分に作ってくれるなんて思わなかった、って」 正式……ひょえ!?と目を上げると、やつは片目をつぶった。 「彼女の家は由緒ある旧家なもので、『許婚者』って間柄になったんですよ」 オレのグラスにまた冷茶を注いでくれながら、言葉を継ぐ。 「俺も贈りたいな、って言ったら、駅ビルの画廊で展示会をやってるから、って引き合わせてくれたんですよ。はじめは、この画像と同じような夏のドームを、と思っていたんですけど、色々な季節や風景のが並んでいて、どれも……こう、なんていうか」 やつはふっと目を浮かせた。 「いろんな記憶の中を切り取ったような……懐かしいような気持にしてくれる作品ばかりで。どれもいいし、どれがいいか、分からないなと思って。でも桜のを見せてもらって、これが一番近い、けど、って手に取ってたら」 「どこ、が違うのだろうか?」と作家さんが聞いてくれたんです、とやつは目を戻してきた。 「どこ、ってわからないような……どこの城ってはっきりしてないような……ってぼんやり答えたら『解った』って言ってくださって」 やつはまたくすくす笑った。 「すぐに取り掛かる、ってその場でデザインを考えてくださって。後からきたあいつが『やっぱ俺と一緒じゃなかったから』ってフクザツな顔して」 んー? オレが目で訊くと、くすくす笑いがひどくなった。 「いや……自分が一緒に行ったら、むうっとしてへそを曲げそうだから、時差つける、なんて言うんですよ。お会いしたら、とても物腰が美しい昔の武家を思わせるような方で、にこにこはしないけど、高校生ごときでもきちんと相対してくださるって雰囲気に感嘆したんですけど」 ついに声を立てて笑い出した。 「あいつが、そうっと、って足取りで会場に現れたら、ぴき、ってお兄さんの口元が硬くなって。いやあ、もう冬の風が吹き抜けるような空気に」 ああ、そう。 なるほどね。 ほら、何にもなかったじゃないか。 「大変だなぁ、これから。まずはとにかく『目指せ、医学部』なんですよ、あいつ」 笑いながら、お気に入りの後輩とその彼女――許婚者だってぇ?――のことを語る。楽しそうに。 オレは、もう一度手の中の小さな世界を揺さぶった。 ひらひらはらはら、ゆっくりと降りそそぐ。さっき見た「なつのひかり」、手の中の「さくらふぶき」。 空に舞い上がり世界を彩り でも やがて最後のひとひらが しずしずと舞い落ちる せかいはしずまる つぎにゆれるまで しばしのあいだ 「ありがとうな」 もう一度礼を言って。照れくさそうに赤くなった頬に手を伸ばした。 「やほー!! 取ってきたよおーっ!! わっははははあ!!」 玄関の戸が開くのと、ほぼ同時、のすっごいどら声が家を貫く。 「あ、ケーキだ」 やつが、さっと立ち上がり。 ダイニングの入り口で、巨大な風呂敷包みと鉢合わせに。 「うわぁ!? え、え、なんですか、これっ!」 「なにってケーキじゃんか! いやあ、でかいから栄光堂にも袋はなくてさぁ! 昔作ったお店の創立……んーと何十周年だかの記念の風呂敷でもいいですか?なんて、腰低く訊かれちゃったよ!」 「ケーキ……ちょっ! これ何号なんですか!?」 風呂敷包みの向こうから、てかてか輝くような綾子の顔。 「えー、号数なんかないって! 三十本のろうそく立てるのに必要な面積を計算してもらって」 ちょっと待て! 「三十本ってなんだ!? オレはまだ三十路じゃねえぞ!?」 綾子はしらっとした目をオレに投げた。 「だって二十九本だと計算しにくいじゃん」 「おまっ!!」 立ち上がろうとしたところで。 「よほーいい、ただいまっ!」 和室の縁台の方から、またなじみのどら声が。それにかぶさるように。 「こんにちはぁ、あれ、もうこんばんは、かなぁ」 こ、この……かわいこぶった太い声は! 「あれ」 やつが、綾子の手から受け取ったでかい風呂敷包みをオレの前にでんと置いて、和室の方へ向かう。 「千秋せん……あれ、やっぱヒロ?」 うわぁ。 「こいつ、うちの柔道部に紛れてんだもん。道場破りだぜ」 「違いますよう。ちゃんと顧問の浮竹先生に申し込んでたんですから」 「ああ、うっきー、急な入院だったからな。ま、そんなわけで連れてきたぜ。折角の誕生日だしぃー! なー、景虎!」 わざと、を通り越してやがる! お前ら、それ完全に打ち合わせだろう!! 「ねーねー、見てよ、景虎! 直径何センチになったのかな、結局!」 「あー。寿司、何時に届くんだっけ、あ、こいつもいるなら、追加した方がいいか?」 「あ、いいですよ。必要なら」 「うん、俺、買出しにいくよ。チャリで来たから!」 オレはぶるぶる震える両手で、桜吹雪の世界を揺らした。 されど静かに舞い落ちる。 手の中の平和な世界でなら! 了(‘11.7.4〜5)
|