川面に躍る光が瞳を弾く。 義明は目を細めて、土手の上の遊歩道から夕の姿に変わっていく風景を眺めていた。 しずしずと流れていく水、彼の町の川。 ふるっと肩が揺れた。 学生シャツだけでは、まだこの地の夕風には辛かったか、と苦笑する。 「橘?」 呼びかけにふっと左手の橋を見やる。自転車に跨った大柄な男子高校生、大荷物は竹刀袋と道着袋。 「小峰、あれ……」 そこで思い当たる。くすりと笑って、こちらへとやってきた友人を見上げる。 「そっか、尾上(おのえ)を送ってきたのか」 まめだなあ、と義明は肩をすくめたが、長身の剣道部元主将は表情を崩さない。 「大丈夫なのか?」 間近で真剣な声音で言われると、ブルータス、お前もか、とついひねたくなる、と義明はデニムのポケットに手をつっこみ、川へと目を向けた。 「大丈夫だよ」 自主連休になっちゃったけどな、と嘯く。 小峰輝(あきら)は自転車のスタンドをおろし、友人の傍らに立った。 「お前、痩せたぞ。分かってるか?」 力の入ったゆっくりした物言いに、義明の少し拗ねかけていた心がしゅんとしぼむ。 多分、誰もがそう思っていて口にしなかったんだよな、と素直に思った。 「ああ、まあなぁ」 ど真ん中を突かれたあとでは、情けない曖昧な受け答えしかできない。小峰の視線が左頬に食い込むようだ。 「病気自体は――治った、のか?」 こうした踏み込み方は、小峰には珍しい。それだけ心配させてるのか、と義明はまた自分が情けなくなった。 「ああ、それはな」 「回復途上、ということか?」 ほんとに珍しい。義明は小さく笑った。察しはいいが、口にはしない奴なのに。 「ああ」 目を上げて、友人に向き合う。 「そうだ。ただ俺は八合目あたりにいるつもりだったけど……」 不意に巻いてぶつかってきた川風に、うっと身じろぐ。 「五合目だったん……」 え、と投げられてきた物をつかむ。城北高の黒ジャージの上。 「三合目だな」 小峰は、ふん、と鼻を鳴らした。 「養生しろ。漫研女子の餌食になりたくなかったらな」 は?と口を開けてから、相手の言葉を咀嚼して、義明は眉を寄せた。 その彼の表情に、小峰の口元がにやりと笑う。 「『橘先輩、なんだか、びしょうねんー!になっちゃったよねー!!』」 なに、その口調、と義明がたじろぐのを見て、ますます楽しそうに、 「『そうそう〜、も、なんかサナトリウム文学っていうか〜♪』」 小峰は「小首をかしげる」という技まで披露した。 「うえ……」 義明は絶句した。固まったその手からさっきのジャージを取って、小峰は彼の頭にばさりとそれを掛けた。義明はぎくしゃくとした機械的な動きで、それを羽織り直した。 「しっかり休めよ。連休はごろごろして食っちゃ寝してろ」 よっ、と自転車に跨ってから、あ、と小峰はポケットをさぐった。 「ほら」 今度はもっと小さなものが宙を飛んできた。義明の手の中に落ちたのは、スタンダードな赤い箱。ロングセラーのチョコレート。 「明日、誕生日だったろ」 「え、なんで」 と言いかけて、義明は「にやり」を返した。 「あー、そうか。今日は尾上の誕生日だったな」 は?と小峰は目を大きくした。 「とぼけるな。尾上の次の日、ってことで覚えてたんだろ」 ジャージの肘で、友人の腕をつつく。 「本日のあちらへの贈り物とは、かなり格差があるんだろうが、覚えててくれたその気持ちは頂いておこう」 「言ってろ」 相手も肘をぶつけ返してきて、痛み分けとなった。 「じゃな」 夕日に向かって走っていく自転車に手を振って、義明はジャージの身頃を探った。 元々、小峰の体躯の方が大きいのだとしても――ゆとりがありすぎることは認めざるを得なかった。 「三合目、か」 ゆるい評価をありがとう。ほんとは「やっと麓に着きました、なとこだ」と言いたかったんだろうな、と義明は溜息をついた。 意地っ張りもほどほどに、ってことだ、と彼は目を伏せた。もう大丈夫だ、元の生活に戻れるぐらいになった、と「彼」に誇示したかった自分、を川風と友達が暴いてくれた。 「ありがとな」 口の中でつぶやくと、胸の奥が少し軽くなった。 さて陽が落ちきる前にあの古い、けれど居心地のいい小さな家に戻ることにしよう、と少年は遊歩道から下り始めた。 でないと。 車の音に、彼は目を上げる。 (ああ、遅かったか) 住宅地のはしっこに青い車が止まって、買い物に行っていたはずのドライバーが降りてきた。 そのむくれた顔に、義明は笑い出してしまった。 この赤い箱で機嫌を取れないものかな、と額のあたりにかざしてみせる。 友達のネーム入りのジャージが、背に当たる風を跳ね返す。 宵闇に呑まれる前に――家に帰ろう。 了(‘13.5.2)
|