なまめかしい夜の大気に立ちのぼる吐息が、目に映るようだった。
幾度も角度を変え重ねられたくちづけから解放されて、あえぐように息を継ぐ。
その一呼吸一呼吸がオーラのように微細かな光の粒子を帯びて、揺らめきながら夜空に吸い込まれていく。
それは天女の羽衣にも似て、まるで彼が人間としての殻を脱ぎ捨て天に還ってしまうかのような、そんな危惧さえ抱かせた。
掠れた声で寝室へと誘った。
夜そのものから高耶の存在を隠すように。この腕の中に繋ぎとめておくために。
ふたりもつれるように室内へと戻る。
隔絶された空間は適度に空調が効いていて、屋外の熱を纏った肌にはベッドのシーツまでもがひんやりと心地よかった。
高耶が崩折れるように顔を埋める。すぐさま覆い被さるようにしてその身体を抱きしめた。
大人になりきらない未成の身体。
そのしなやかな薄い背中一面にくちづける。
経脈に沿って、時に吸い上げ、時に息だけを滑らせて。
何処に落ちるか解らない刺激に強張ったままの身体がひくりとはねる。
投げ出されていた手が、何かをこらえるようにきつく枕を握りしめる様子に薄く笑みを掃きながら、直江はいったん身を起こし、下肢を覆うスウェット地を取り去ろうと手を伸ばした。
縁にかけた指に慄いたのはほんの一瞬。やがて、高耶は、わずかに身じろぎ自ら腰を浮かせた。
その瞬間を逃さずに一気に剥ぎ取る。
そして放り投げざま、その手を腰とシーツの隙間に潜り込ませる。
高耶のものはすでに勃ち上がっていた。
しっとりと汗で湿った繁み。そして、汗とは違う別のぬめりが先端から滲んでいる。
やわやわと揉みしだく。
屹立はたちまち硬さと質量を増し、直江の掌をも濡らしはじめた。
扱くリズムと連動するように背中がうねる。嬌声にも似た息遣いがせわしない。
いつもなら、ぎりぎりまでかみ殺す声を惜しげもなく撒き散らす今日の彼の反応は、まるで別人のそれだった。
いったいどうしたというのだろう?
煽るはずが煽られて、仕掛ける指に力がこもる。
得体の知れない焦燥に駆られ嗜虐的な気分で、知り尽くしている弱いところだけを責めたてる。
余裕をなくした直江の手練に稚い高耶が持ちこたえるはずもなく。
喉に絡んだ悲鳴が長く尾を引いて、しなると同時に漣のような痙攣が全身を走る。
吐き出された逐情の証が指の間からとろりと零れだしていた。
あっさりと熱を放ち、そのまま突っ伏す身体を魅入られたように男が見つめている。
荒く喘鳴するたびに上下する肩のライン。
浮き出る肩甲骨の陰影。背筋の窪み。
恐ろしいほどに蠱惑的なこのひとを、いっそこのまま嬲り尽くして壊してしまおうか……そんな気狂いじみた瞳で。
眠らせていたはずの独占欲が頭を擡げる。
今ならばどんなふうに抱かれようと高耶は自分を拒まない。
ただ与えられる快楽に酔い、諾々として従うだろう。
手酷い刺激や痛みや羞恥でさえ被虐の悦びにすりかえて。
直感は、すぐに身勝手な確信にかわる。
暴走しだした本能のまま、性急に押し挿ろうと崩れた腰を引き上げる。
脚を割り、暴いた秘所に掌の中の残滓をおざなりに塗りつけて、まだ硬く閉ざされた蕾に無理やりにでも道をつけようと猛る己をあてがったとき。
なおえ……と。
耳に届いた小さな声に、鞭打たれでもしたように身体が硬直した。
その無垢な響きには、陵辱めいた行為に対する怯えも制止も憤りもなく、ただ純粋に自分を求める感情の発露のようだったので。
頭を巡らせて高耶が潤んだ瞳で見上げてくる。
欲情に煙った、だが、それだけではない真摯な瞳で。
身体を起こすと、直江の首に腕を巻きつけて自分から抱き縋った。何度も何度もその名を呼びながら、心ごとゆだねるように。
凶悪な欲望は、瞬時に霧散していった。
その根底にわだかまっていた危惧も焦燥も。すべて。
叫びだしたいような歓喜だけがこみあげる。
心のそこから全霊で欲されている。必要とされている。
それを無防備にさらけだした高耶がたまらなく愛しかった。
「高耶さん……」
耳朶を甘噛みして、のけぞる喉にくちづける。
この愛しい人にただ極上の陶酔を与えてやりたい。自分という存在に全身隈なく包まれて、緩やかに昇天するさまを見届けたい。
ゆるゆると、強弱をつけて愛撫する。高耶がもっとも好む穏やかな触れ方で。
「あぁ…あっ…っ…」
間断なく洩れる喘ぎが直江を肯定してくれる。
「…なおえ…なお…ぇ…」
乱れきった息の下で、高耶が譫言のように口にする。それ以外の言葉を喪したように。
目線だけで見交わして、望まれるままに交婚る。
極みに導びこうと、収めたものを半分引き抜きとある一点めがけて再び律動を開始したときだった。
ふいに、背筋を貫いた甘美な疼きに瞠目した。
自身の器官とはかけ離れた内部からもたらされる快感。
それはまさしく高耶が陥っている惑乱だということに気がついて、まじまじと下に組み敷く彼を見つめる。
こんなことは初めてだった。
すでに忘我の境地にいるのだろう。 しどけなく揺れながら直江を貪る高耶に、もう理性の色はみられない。
それゆえなのか。
思念ではない、自身の感じる感覚すべてを無意識に放出しているらしい。
肌からじかに伝わる高耶の深層。
そこには満たされている悦びに溢れていた。
自分という存在が、身体だけではなく、心までいっぱいにしているのだと。
そう思うだけで目が眩みそうだった。
突き上げれば木霊のように身の裡に響いてくる。
穿つ快感。肉壁を擦りあげられる陶酔。身体の奥処から溢れ出すような酩酊。
合わせ鏡のような二重の悦楽に溺れて、こらえようもなく、高耶の内部に解き放つ。
迸りの衝撃でさえ余すところなく伝えられて更なるうねりがやってくる。
喰らう者と喰らわれる者、与える者と与えられる者。
そのすべてが渾然と溶け合った類稀な交歓は、互いの意識が白むまで途切れることはなかった。
シャムの双子のように身体を繋げ愛しい半身を抱きしめたまま、自失していた直江を引き戻したのは、夜の静寂を破る小さな電子音だった。
ほとんど同時に高耶も気づいて身じろぎする。
まだひとつでいることに低くうめきながら、緩慢な仕種で枕の下に手を伸ばす。
探り出した腕時計のアラームを止めて、それだけで力を使い果たしたように直江の胸に顔を埋めた。
「……分水嶺だ……季節が変わる」
「?」
吐息のような言葉の意味を量りあぐねて、直江が柔らかく頭を撫でる。
続きを促すかのような、髪を梳かれるその行為を陶然と受け入れていた高耶は、やがて寝物語のように問わず語りに語りはじめた。
「……昔、子供の頃に読んだ話にでてきたんだ。もちろん正確な意味なんて解らなかったけど。
高い山、深い谷………自然が造った、生き物が超えられない境界線のことなんだろうってそのとき思った……」
直江の目にもパノラマのようにおぼろなイメージが広がった。
寄り添う高耶からながれこんでくる、恐らくは高耶自身の記憶の断片。
幼い高耶が自らと重ね合わせて読んだに違いない、物語の情景が。
広大な森林。
眼下に光る川。
そしてはるか遠く、青く霞む分水嶺の峰々。
高台の一角から見渡す己が王国。
苦難の幼少。壮年の充実。やがて衰えゆく悲哀……一頭の灰色熊の物語。
「…母さんが家を出たとき、ああ、母さんは分水嶺を越えたんだって、そう思った。
境界線を越えるにはすべてを捨てる覚悟がいるから。だからオレたちは置いていかれたんだって。
恨むより悲しむより先にすとんと納得しちまった……。
…泣き喚けばよかったのかな?一緒に連れて行ってくれって。
…そうしてたら、たぶん、こんなに引きずることもなかった。
今になって会えないなんて情けねー。物分りがよすぎるこどもってのも善し悪しだよな……」
そう言って自嘲気味にふわりと笑う。
その笑みに胸が詰まった。
自分のことはいつも後回しにして。
自らの傷口には気づかずに他人の傷みにだけ敏感で。
血を流しつづけていた日々に、この手が届かなかったことがただただ悔やまれる。
「…季節の変わり目は苦手だ。気持ちがついていけない。こうやってかっきり暦の中で区切られると、どうしても言葉と一緒にあの頃のことまで思い出すから……」
続く沈黙が痛かった。
眼を閉じ黙り込んだその表情に小さなこどもの彼が透けてみえる。
捨てることも受け入れることも出来ず、ただ凍らせてやり過ごすしかなかった当時の想い。
生きるために幾重にも殻で覆って、やがて高耶自身も見失ってしまっただろう柔らかなこどもの心。
庇護を求めて泣き叫びたかったはずのその心情は、固い氷の欠片になって今も高耶を苦しめている。それとは気づかないままに。
わけもなく不安で苦しくて。それすら自分の弱さと責め続けて。
それでも逡巡の果てにここに来た。そうしてくれたことが、直江にとってもせめてもの救いだった。
きっかけとなった美弥の仙台行きは、思えば絶妙のタイミングだったのかもしれない。
抱え込む心傷はもう限界まできていたのだ。
理性の枷が一気に弾ける勢いで、自分にしがみついてきたのがその証だった。
さきほどまでの妖艶さが嘘のように、高耶は相変わらず胸にもたれたままでいる。
ぴくりともしない様子に寝入ってしまったのかと顔を覗き込んだその瞬間、瞳を上げた高耶と真正面から視線が合った。
「おまえがいてくれてよかった。ひとりじゃなくてうれしいよ。直江…」
「高耶さん……」
「さっき…、ベランダで抱しめてくれたとき、急に心が軽くなった。
おまえにこうして欲しくてここに来たんだって初めて自分に正直になれた……。
ごめんな。オレ、今、ちょっとヘンかもしれない。
明日になったら、また元気になるから。いつものオレに戻るから。だから、今日だけ…ごめんな……」
戻らなくていい……と。
半ば本気でそう思いながら、とうとう口には出来なかった。
こんなに儚げな様子を見せられたら、二度とこの手を離せなくなる。腕に囲って閉じ込めてしまいたくなる。
それが高耶の本意ではないことを重々承知していても。
守られるだけの存在には甘んじない。
何より高耶自身が自分の脚で立つことを選び取る人間だから。
そうやって矜持を培い、強かさを装って生きてきた今の高耶全てが愛しいのだから。
返事の代わりにくちづけた。
唇を滑らせて耳元に囁く。
「シャワーを……。このままだと朝がつらい……」
「……………………めんどくせー……」
渋る高耶に手を差し出して有無を言わせず抱き起こす。
その拍子に内部の残滓が溢れだし、内腿を濡らしながら直江の下腹にまで流れていった。
肌を伝う雫の生暖かさとその量の多さに高耶の目が丸くなる。
…ね?と、悪びれもせずに目線だけで問い掛けられて、不承不承に頷いた。
…おまえがやりすぎるから……と。
肩口に顔を押し付け、赤らんだ表情を隠しながらの憎まれ口は、もう、少しだけいつもの彼に戻ったようで。
そんな高耶を直江は恭しく抱き上げて風呂場へと連れていった。
清められた身体を真新しいシーツに横たえて、高耶は寝息をたてている。
安心しきったその寝顔をもっと眺めていたくて、直江は傍らに寄り添ったまま、ずっとその背を撫でている。
「ねえ、高耶さん。……分水嶺と呼ばれる高峰は、確かに湧き出たばかりの岩清水を無慈悲に分断してしまうけれど。
たとえ違う土地を流れたとしても、水はいつか海にそそいでひとつになる。
太陽に温められて空に還って、雲になって雨になって再び大地に戻るのだと、小さなあなたに教えてあげたかった。
だから何も心配しなくていいと。
悲しまなくていいんですよ。移ろう季節も何もかも。辛かったら休めばいい。
そのために私がいる。いつだって傍にいるから……」
囁く睦言は、この夜への誓い。
長すぎる夜の孤独が、高耶という存在をかたちつくった。
そして同じ分水嶺の夜が、ひととき、高耶の精神を解き放ってくれた。
捉え難い夏の夜の夢のようではあるけれど、欠片は確実に溶けはじめたのだ。
高耶もまた、彼自身の分水嶺を越え、新しい大地を目指すのだと、そう信じていたかった。
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