わずかに揺らぐ空気の流れにのって、花の香りが漂っていた。
時折、高波がやってくる。 確かに踏みしめていたはずの足元をすくわれて不意に喪失感に襲われる。 そのあとの、ふわりと浮揚する不可思議な心地よさ。 そのまま一気に押し流されて、縋るなにかを探す手が宙を切る。 手応えを感じたとたんにどっと安堵が押し寄せた。 もう高耶は抗わない。ただ、自分を押しやるその力に身をまかせる。 どんな姿をさらそうとかまわない。ただ波に身を委ねていればいい。 ここは荒ぶる外洋ではなく、直江という名の穏やかな内海なのだから。
声にならない悲鳴をあげて、高耶の身体がちいさく跳ねる。 密着している下腹に伝うものを感じ取り、微かに痙攣を残す内腿の感触に高耶の陥っている官能の度合いを推し量る。そして、肩口に預けられた頭をあやすように撫でてやる。
髪をかきあげて露にした瞳には、もう彼独特の力強い光はない。
枷を解かれた高耶は、もう、堪えることはしなかった。
一方の直江も必要以上には焦らさない。 二人抱きあいながら海面に浮んで快感のうねりをいくつもやり過ごすような、満ち足りた穏やかな交わり。 だが、それもそろそろ限界だった。 今度こそ深く挿入しようと背中を支えながらそろそろとシーツに横たえ、繋がりを解いて身を起こす。 その気配を察して、高耶が虚ろに視線を戻す。 「…やだ……」
離れ難いと、その腕の中にずっと収まっていたいと手が伸びる。 肉欲よりももっと深い部分で求められている――― 自分に向けられる高耶のひたむきな想いは、直江にとってもかけがえのないものではあるけれど、とりあえずはもっと切実な要求に従うことにする。 縋ろうとするのを苦もなくかわして前髪に触れ、なだめるように囁いた。 「大丈夫。何処にも行かない。すぐにまた抱いてあげるから……」 「……ん…」
髪を梳かれる感触に高耶がやるせなさそうに眼を閉じた。 ふと思いついて、戯れに、翼を折りたたむように高耶の脚を曲げさせると、絡む手を導いて高耶自身の膝うらを通しその太腿に添わせてやる。 「……やだ…ちから…はいんね…」 腰が半分浮いて不安定に揺れる身体のバランスを取りかねて、むずかるように首を振る。 「…でも、これなら淋しくないでしょう?いい子だから少しだけそうしていて……すぐに一緒にささえてあげる」 そう云って、あられもない姿となった高耶に眼を細める。
まったく目の眩むような光景だった。 自ら足を大きく抱きかかえ、しとどに濡れた秘所をさらす――男を誘い込む娼婦のような扇情的な姿態。 だが、意識を半分飛ばしているような今の高耶には、自分がどんな格好を取らされているのかにさえ気づいていない。 ただ囁きに従おうと、ともすればずり落ちる脚の重みを懸命に支えている。
企まざるだけに、それはいっそう匂いたつような艶姿となって封印していたはずの深層をあぶりだす。
泣きそうな声が引き金となった。
衝動だけなら制してみせる。どんな相手だろうと望みのままに抱いてやれる。
大事にしたい希いとは裏腹に歯止めが効かない。
そう云うつもりだった。 「―――あああっっ!」 云いかけた言葉が悲鳴に変わる。
いきなり腰を引きずられ抱え込まれたかと思うと、いっきに奥まで貫かれたのだ。 人が変わったかと思うような突然の仕打ちに、高耶が掠れた声を上げ続ける。
背中が浮くほど持ち上げられて真上から穿たれる。 その激しさに身体が反射的に逃げを打てば、すかさず引き戻され仕置とばかりに痛いくらいの刻印を散らされた。 肉襞をこすり上げるだけが目的のような容赦のない抜き挿しに、繋がる身体はなすすべなく翻弄されて往復するシーツの上に新たな皺をつくる。 ―――なんでだよ?
もとより逆らう体力は残ってはいない。 ―――意趣返しのつもりか? 非力な草食獣にでもなった気がした。 生きながらその身を内臓ごと獣に喰らわれるインパラ―――それが今の自分の姿だ。
ならば、獅子のようにのしかかるこの男の眸には、さぞかし勝ち誇った覇者の悦びに満ちているのだろう。
急に何もかも億劫になって、ぱたりと両腕を投げ出した。 そこに浮ぶ言いようのない感情に、高耶は不意にこの陵辱めいた行為の真実を悟る。
それは嗜虐に酔う歓喜の色だけではなかった。
勝者になっても得るものは安寧ではない。永劫に愛する半身を失いつづける慟哭だ。
ここまで欲されている。 抱きしめようと手を伸ばした。鳶色の瞳の愛しい獣を。 ―――やるよ。おまえに。……必要なら好きなだけオレを喰らえ。 そう伝えるために。
視線が絡む。唇が触れあう。差し出される舌を貪るように吸い上げた。
高耶が花のように微笑んだ。 今度こそ高耶の意識が昏い海に沈む。腕に抱く、愛しいものを道連れにして。
窓を閉めてベッドに戻った直江に、もう眠ってしまったとばかり思っていた高耶が呟いた。 「…もう、飲めねえ……オレ…けっこう…気に入ってたのに……」
語尾はそのまま寝息に溶けて消えた。
解しかねて首をひねる直江のもとにも、ふわりとした芳香が漂った。 「…ああ、このお茶のことですね…」
あの紅茶を飲むたびにきっと思い出してしまう。 「あなたとだけの秘めごとです……。だから安心しておやすみなさい。今は……」
「これはこれは……またずいぶんと可愛らしいケーキですね」 思わず呟いた直江の言葉に、高耶が照れ臭そうに下を向く。
紙箱のレース模様の台座にちょこんとのった小さなケーキ。 パティシエ渾身の力作ともいうべき見事な出来栄えで、いかにも美味しそうではあるけれど、質実剛健を旨とする普段の高耶ならば選びそうもない品であるのも確かだった。 「……二人用の誕生ケーキを頼んだら、なんか、売り子のおねーさんが、ヘンに気を回してくれちゃってさ。……これがイチオシなんだって。飴が溶ける前にさっさと食えってさ」
販売員が客に向ってそんな物言いをするわけもないが、とにかく、この繊細な美しさは長続きしないということなのだろう。 「いいよ。…オレ持ってくる」 そう云って逃げるようにキッチンに消えた後ろ姿と、目の前のケーキをつい見比べてしまう直江だった。
まさか、その相手が三十路過ぎの男とは思わずに。
にやけていると高耶がお茶道具の載った盆を捧げ持ってきた。 その瞬間、直江ははっとしたように上気した顔を逸らす高耶を見る。 「高耶さん……」
あのときのお茶だった。 「いいんですか?」 訊ねたのは紅茶のことではない。そして言外の含みを正確に読み取った高耶が応える。 「……誕生日だからな。おまえの…」 「なによりのプレゼントですよ」
儀式に臨むように厳かな顔で一口含む高耶を待って、以前したようにくちづけた。
高耶は今日は抗わなかった。 「飴が溶ける……。高かったんだぞ?あれ」 甘い雰囲気を瞬殺する物言いに、たまらずに直江が吹きだした。 「そうですね。……先にケーキをいただきましょう。これも…あなたからの大切な気持ちのこもったプレゼントですから……」
片手を握って上体を起こしてやる。 「誕生日、おめでとう…」 腰を浮かせて、今度は高耶の方から軽くその唇を触れ合わせる。 「……あんまり挑発しないでください。また暴走してしまいますよ?」 放心したように呟く直江に声を立てて高耶が笑った。 「いいんだ。今日ぐらいは許してやるさ……まずはこっちを片付けてからな」 くいくいっと指差す先には、砂糖菓子の天使が人待ち顔でふたりを見守っていた。
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