星の降る宿




湯船からふと見上げた高窓越しの空はすでに黄昏の彩を喪っていた。
黒々としたその矩形に急かされるように洗い場に向う。
髪を洗っていると、脱衣所の引き戸が開く微かな気配がした。
ひたひたと溢れるお湯を踏む足音は、屈んでいる男の背後で止まり、一呼吸置いて隣に座る。

「おや、どうしました。外はお気に召しませんでしたか?」

眼は瞑ったまま、手桶にお湯を汲みながら問いかける。
先程廊下で別れたときは、踊るような足取りで露天風呂へと向っていったのだ。

「そういうわけじゃないんだけど……たまにはおまえの背中流そうかと思って…」

ぼそぼそと返る応えは少々歯切れが悪い。
なんとなくその理由が判る直江はこみ上げてくる笑いをかみ殺しながら、溜めたお湯を被ってシャンプーの泡を流す。

「ははあ、さては女性の先客でもいましたか」

「いや、はじめはオレだけだったんだけど……」

どうやら後から女性客が数人で入ってきて、居たたまれなくなったらしい。
滴る雫を手探りで探し当てたタオルで拭って、ようやく直江は顔を上げて傍らの高耶を見る。
心なしか顔が赤いのは、立ち込める湯気のせいばかりではないのだろう。

「もったいない。せっかく目の保養が出来たのに。混浴なんだから、あなたが逃げ出すことはないんですよ」

からかうように云うと、むきになって反論してきた。

「うるさい。あっちはオバチャンの団体だぞ?あのまま居座っていたらオレの方が玩具にされそうだったんだ!いいから、貸せっ!」

憤然として直江の手からタオルを取り上げる。
どうやら本当に洗うつもりらしく、力任せに石鹸をなすりつけ、盛大に泡立てている。
この調子で擦られたのでは皮膚が剥けかねないと、苦笑まじりに覚悟していたのに、背中に押し当てられたタオルの感触は意外なほど優しかった。
おずおずとした仕草でシャボンの泡を丁寧に塗りのばし、密着させた掌を微妙な強弱で滑らせていく。
まるで愛撫を思わせる感覚に直江が慌てた。
痛みなら幾らでも耐えてみせるのだが、こんな洗い方をされたら、身体が勝手に錯覚してしまいそうになる。
必死でこらえる耳元に高耶が呟く。

「……痛いか?」

身を固くしている理由を傷のせいだと思ったらしい。
かぶりをふって断言する。

「もう、平気です。痕もほとんどないでしょう?」

「うん……」

力いっぱい否定したのに、それでも高耶は壊れ物を扱う手つきを止めなかった。
自分を庇って負った怪我だ。
ずたずたに裂けて血に染まっていたあのときの状態を思えば、ここまで治っているのが不思議だった。
実のところ、あの傷痕は一生醜く残るのではないかと危惧していたのだ。

「……悪かった」

消え入りそうな声音に、直江は、高耶が抱え込んでいた呵責の深さを思い知る。

「そんなに気を病むことではないんですよ。私たちは換生者ですから……」

力づけようとした言葉に、不意に高耶が反応した。
何かいいたげに顔を上げる。
鏡の中で視線が合う。
互いに口を開こうと逡巡したちょうどそのとき、他の客が入ってきた。
静かだった空間はたちまち喧噪に包まれてしまい、二人の会話もここで途切れた。



直江が戸惑うほどの風情だった高耶だが、夕食を終えるころにはすっかりいつものペースを取り戻していた。
腹ごなしと称して、売店脇の遊戯スペースへと向う。
ゲーム機が据えてあるのを目にしていたからなのだが、それだけでは物足りなかったらしく、一通り遊び終えると今度は見物を決め込んでいた直江に卓球の勝負を申し込んできた。

「〈力〉を使うのはナシだからな」

まじめくさった顔で念を押す。
軽い気持ちで受けた直江もラリーが続くうちに熱が入り、気がつけば、ふたりとも汗だくになってしまっていた。

「今度こそ露天の方にいってみましょうか」

「んー。どうすっかな……」

直江の誘いに高耶は眉を寄せている。
先程のセクハラがよほどこたえているらしい。

「大丈夫ですよ。団体さんなら、今は宴会の真っ最中ですから」

宴会場のある奥の廊下から、かすかなざわめきが洩れていた。
なおも水を向ける直江に、ようやく高耶が得心したように頷きを返す。

「タオル持ってくる」

屈託なく破顔して、そのまま部屋へと駆け戻っていった。



直江が請あったとおり、夜の湯殿に人影はなかった。
ぼんやりと灯った灯りの外れで、お湯に浸かった高耶が満足そうに息をつく。
頭を縁の石組みに預けたまま全身を伸ばすものだから、ややもするとぷかりと浮き上がる身体をくるくる回転させたりしている。
まるで水族館のラッコのようだと思いながら、あえて、直江はそ知らぬ振りをしていた。

「さっきの続き……」

「はい?」

突然声をかけられた。
高耶は枕代わりの岩にもたれてまっすぐに直江を見ていた。

「あれ、どういう意味なんだ?換生者だからって、生身の身体には違いないだろ?傷つけば痛いし死ぬことだったあるのに……」

(…どうしておまえは身体を盾に投げ出せるんだ?)

一番訊きたいことは言葉にならない。
口ごもる高耶の疑問に、直江は律儀に応えていく。

「致命傷でもない限り、少々の怪我はたいした障害にはならないんです。治癒力が高いですから」

「?」

「鍼治療と同じ理屈です。われわれは気を操ることに長けていますから……。怪我だけでなく、病気知らずでいられることも換生の役得かもしれませんね。あなたは?覚えがありませんか?」

云われてはじめて気がついた。
そういえば子供の頃から風邪ひとつ引いたことがない。
自らつけた火傷の痕もいつのまにか手の甲から消えてしまっている。

「そうだったのか……」

どこか呆然とした口調に、直江がはっと身構えた。
高耶の意識は過去へと飛んでしまっている。

「すっげー丈夫なガキだったから…放っておいても平気だと思われたのかな?換生なんかしなければ……、普通の…病気したり怪我したり、目の離せないただのこどもの仰木高耶だったら、おふくろ、家を出なかったのかも」

自虐の洩れる唇に直江が指を押し当てる。

「そうやって何もかも背負い込んでしまうのは、あなたの悪い癖ですね。あなたはいつだって最善を尽くしてきた。それでいいじゃありませんか。……責められるべきなのは、そのときのあなたを助けられなかった我々なんですから」

突然に持ち出された滅茶苦茶な理屈に高耶が目を剥く。

「っ!バカ言うな。!十年も前の話だぞ?助けるってったって、おまえ、まだ学生だし、第一、他人の家庭に首突っ込めるわけが……」

…ないじゃないかと言いかけて、高耶は不意に虚をつかれた表情になる。
にやりと笑った直江が続けた。

「…そうですね。確かに当時の私は非力だった。でも、高耶さん、今の台詞をそっくりあなたにお返ししましょう。ご両親の問題だったんです。あなたが気に病むことはないんですよ」

見事に言い負かされて唇を噛む高耶に、直江が今度は柔らかく微笑んだ。そして真摯な口調で付け加える。

「あなたがあなたでいることに救われる人間もいるんです。…それを、どうか、忘れないで……」

「ん…」

もう一人で闘わなくていい。
徒手空拳で天を呪うようなあの絶望は、この男がいるかぎりやってこない。
そう確信してしまうほどの誠実な存在が自分のすぐ傍にいる…。
魅入られたように直江を見つめていた高耶だったが、不意にその端整な顔が息がかかるほどの至近距離にあることに気がついた。
気恥ずかしくて、派手な水音をたててお湯の中に潜る。
そのまま潜水して直江から離れると、勢いよく湯船からあがった。

「先に部屋に帰っているからなっ」

血の色を浮かせた顔で言い捨てて身を翻す。

ひとり取り残された男が、微笑いながら小さくため息をついていた。              終




……内容がタイトルまで届かずに中途半端で終わってしまいました。
朝ご飯作ってくれた高耶さんへの御礼にドライブに連れ出し、川遊びをしながら落ち鮎でも食べ、
山間の小さな温泉宿に一泊して…みたいな流れだったはずなのですが。
イントロを別な話で使いまわしたために、この部分だけが取り残されてしまっていました。
旅館のお料理が美味しそうに描写できなかった…というのもあります(苦笑)
そしてなにより。
ミラ歴の浅かった私は先生が同人誌で使っていた裏設定の存在を知らず、
こともあろうに、高耶さんに直江の背中を流させているのです(汗) 背中の傷も勝手に消してしまいましたし(笑)
ある意味超能力者なんだから、とにかく治癒力は高いはずだよなあと思っていたので。

そしてこれがワープロでの最後のかわら版になりました。
隣で三ヶ月だったちびががうにゃうにゃむずかったり…。今思うととても懐かしいです(笑)




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