湯船からふと見上げた高窓越しの空はすでに黄昏の彩を喪っていた。 黒々としたその矩形に急かされるように洗い場に向う。 髪を洗っていると、脱衣所の引き戸が開く微かな気配がした。 ひたひたと溢れるお湯を踏む足音は、屈んでいる男の背後で止まり、一呼吸置いて隣に座る。 「おや、どうしました。外はお気に召しませんでしたか?」
眼は瞑ったまま、手桶にお湯を汲みながら問いかける。 「そういうわけじゃないんだけど……たまにはおまえの背中流そうかと思って…」
ぼそぼそと返る応えは少々歯切れが悪い。 「ははあ、さては女性の先客でもいましたか」 「いや、はじめはオレだけだったんだけど……」
どうやら後から女性客が数人で入ってきて、居たたまれなくなったらしい。 「もったいない。せっかく目の保養が出来たのに。混浴なんだから、あなたが逃げ出すことはないんですよ」 からかうように云うと、むきになって反論してきた。 「うるさい。あっちはオバチャンの団体だぞ?あのまま居座っていたらオレの方が玩具にされそうだったんだ!いいから、貸せっ!」
憤然として直江の手からタオルを取り上げる。 「……痛いか?」
身を固くしている理由を傷のせいだと思ったらしい。 「もう、平気です。痕もほとんどないでしょう?」 「うん……」
力いっぱい否定したのに、それでも高耶は壊れ物を扱う手つきを止めなかった。 「……悪かった」 消え入りそうな声音に、直江は、高耶が抱え込んでいた呵責の深さを思い知る。 「そんなに気を病むことではないんですよ。私たちは換生者ですから……」
力づけようとした言葉に、不意に高耶が反応した。
「〈力〉を使うのはナシだからな」
まじめくさった顔で念を押す。 「今度こそ露天の方にいってみましょうか」 「んー。どうすっかな……」
直江の誘いに高耶は眉を寄せている。 「大丈夫ですよ。団体さんなら、今は宴会の真っ最中ですから」
宴会場のある奥の廊下から、かすかなざわめきが洩れていた。 「タオル持ってくる」 屈託なく破顔して、そのまま部屋へと駆け戻っていった。
「さっきの続き……」 「はい?」
突然声をかけられた。 「あれ、どういう意味なんだ?換生者だからって、生身の身体には違いないだろ?傷つけば痛いし死ぬことだったあるのに……」 (…どうしておまえは身体を盾に投げ出せるんだ?)
一番訊きたいことは言葉にならない。 「致命傷でもない限り、少々の怪我はたいした障害にはならないんです。治癒力が高いですから」 「?」 「鍼治療と同じ理屈です。われわれは気を操ることに長けていますから……。怪我だけでなく、病気知らずでいられることも換生の役得かもしれませんね。あなたは?覚えがありませんか?」
云われてはじめて気がついた。 「そうだったのか……」
どこか呆然とした口調に、直江がはっと身構えた。 「すっげー丈夫なガキだったから…放っておいても平気だと思われたのかな?換生なんかしなければ……、普通の…病気したり怪我したり、目の離せないただのこどもの仰木高耶だったら、おふくろ、家を出なかったのかも」 自虐の洩れる唇に直江が指を押し当てる。 「そうやって何もかも背負い込んでしまうのは、あなたの悪い癖ですね。あなたはいつだって最善を尽くしてきた。それでいいじゃありませんか。……責められるべきなのは、そのときのあなたを助けられなかった我々なんですから」 突然に持ち出された滅茶苦茶な理屈に高耶が目を剥く。 「っ!バカ言うな。!十年も前の話だぞ?助けるってったって、おまえ、まだ学生だし、第一、他人の家庭に首突っ込めるわけが……」
…ないじゃないかと言いかけて、高耶は不意に虚をつかれた表情になる。 「…そうですね。確かに当時の私は非力だった。でも、高耶さん、今の台詞をそっくりあなたにお返ししましょう。ご両親の問題だったんです。あなたが気に病むことはないんですよ」 見事に言い負かされて唇を噛む高耶に、直江が今度は柔らかく微笑んだ。そして真摯な口調で付け加える。 「あなたがあなたでいることに救われる人間もいるんです。…それを、どうか、忘れないで……」 「ん…」
もう一人で闘わなくていい。 「先に部屋に帰っているからなっ」 血の色を浮かせた顔で言い捨てて身を翻す。
ひとり取り残された男が、微笑いながら小さくため息をついていた。 終 |
そしてこれがワープロでの最後のかわら版になりました。
隣で三ヶ月だったちびががうにゃうにゃむずかったり…。今思うととても懐かしいです(笑)