MAPLE CAPPUCCINO




玄関のドアを開けたとたんに甘く香ばしい匂いに迎えられて、直江は一瞬、ひるんだように立ちすくんだ。
立ち込めるのはカラメル風味のお菓子の香り。
まるでデジャヴを見るようだ。
記憶が一気に飛んだ気がした。
あの、強制的に姉の手伝いに駆り出されていた少年時代に──。
たとえ店売りのケーキを百個買ってテーブルに並べたとしても、ここまで強烈な匂いには決してならない。
湯気の立ち込めるキッチンで菓子をつくる作業でもしているのでないかぎり──。
高耶がするとも思えない。
姉の冴子か…それとも美弥が来ているのだろうか?

──そんな話はきいていないが?
疑心暗鬼でいるところに高耶が顔を覗かせた。
悪戯が見つかった子どものような表情をして。

「あ……、おかえり」

「ただいま……高耶さん、この匂いは…?」

「ちょっとすごいだろ?今、珈琲淹れていたんだ」

「は?」

思わず問い返した直江だった。



「今度職場で結婚したひとがいてさ、皆で組んでお祝い贈ったんだ。で、今日、旅行のおみやげ貰ったんだけど……」

「それがこれですか?」

リビングに落ち着いて。
差し出されるカップを受け取り、高耶の手にある紙袋を胡散臭そうに見やる。

「うん。チョコと珈琲どっちがいい?って訊かれたから……。ほら、チョコはもう食い飽きたし、コナコーヒーって美味しいんだって、直江、以前に言ってただろ?だから帰る時間見計らって淹れておこうと思ったんだけど」

「高耶さん……」

「……でもヘンだよな。ちっとも珈琲の香りじゃないし。あ…、そういえば瀬戸内さん、びっくりするわよってにこにこしてたから、オレ担がれたのかも…。ゴメンな。せっかくおまえのこと、喜ばせようと思ったのに」

悪いことなど何ひとつしていないのにすまなそうに俯く高耶が、抱きしめたいほどいとおしい。
そんな彼との距離を少しでも詰めたい直江が、珈琲の包みを検める振りをしながら顔を寄せた。

「その気持ちだけで充分ですよ……。どれどれ?確かにハワイのおみやげなんですね?」

当然のことながら、英語圏で売られていた品物には日本語訳など貼っていない。
表示を見た直江が納得したように声を上げた。

「高耶さん、コナはコナでも、これ、フレーバーコーヒーですよ。だからこんなに派手に香るんです。」

指し示したのはブランド名とマークの下に小さく印刷されたアルファベットの羅列。

「フレーバー?わざわざ珈琲に別な香りをつけるのか?外人のセンスってなんかよくわかんねーな…」

文句を云いながらも高耶の顔がみるみる和らいでいく。
理由が判ってようやく安堵したらしい。
テーブルに置いたカップからは相変わらずメルヘンな香りの湯気が立ち上っている。
その湯気までがいっそう甘くなった気がした。



「わりと普通だよな」

「ですね」

慣れてしまえば、意外にもメープルカプチーノフレーバーの珈琲はまともな珈琲の味がした。
嗅覚に惑わされてほのかな甘さを感じる気もするが、それがかえって口当りよく飲みやすい。

「なんか、くせになりそう……」

ぽつりと言って高耶が笑う。
ぶうたれたことなど忘れたように。

「これさ、普通に砂糖とミルク入れたら絶対美味しいぞ。直江、おかわりは?」

「私はもう要りませんけど……高耶さん、まだ飲む気ですか?」

いそいそと高耶はもう一度ドリップの仕度をしている。

「インスタントじゃないんですから。飲みすぎたら眠れなくなりますよ?」

「へーき。今度はカフェオレにするから」

嬉々として再び盛大に甘い湯気を吸い込む高耶を、直江が心配そうに見つめていた。



その夜更け──

一度は深い眠りについたはずなのに、夜中にぽっかりと目覚めてしまった。
隣のベッドでしきりに寝返りをうつ微かな衣擦れの音がする。
押し殺したため息も。

「高耶さん?」

声をかけた途端、ぴたりと気配が止まった。

「ねむれないんですか?」

返事はない。
背中をこちらに向けたまま、どうやら狸寝入りでごまかすつもりらしい。

「……眠れるコト、しましょうか?」

同じく返事はない。
沈黙を肯定と受け取って、直江は高耶の傍らに潜り込む。

「……おまえ、明日早いんだろ?」

やはり寝てなどいなかった高耶が毛布をしっかり身体に巻きつけたままくるりと反転して上目遣いに男をみる。

「あなたもでしょう?このままだと大変ですよ?寝不足状態でこなせる仕事じゃないんですから」

「だからって、こんなことしてたらますます寝る時間が減っちまうだろっ!……おいっ!」

毛布をはがし、強引に釦をはずしていく直江に、高耶はなおも抵抗を試みる。

「大丈夫。足りない時間は質で補えるようにしてあげます。知っていますか?頭がさえて眠れないときは、身体はすごく感じやすくなっているんですよ?いい機会だから試してみましょうね」

「何云って……っ!」

罵る言葉は最後までいえなかった。
いきなりわき腹を撫で上げられたのだ。
首筋に顔を埋めた直江を引き剥がそうとしていた手が、逆にすがるように頭ごと抱きしめる。

「んっっ……」

堪えきれずに鼻に抜けた声は、自分でも信じられないほど甘く艶めいていて、高耶は思わず身をすくめる。

「ほらね?カラダは正直でしょう?……あなたも素直に溺れてしまいなさい。せっかくの新婚さんのおみやげが取り持つ夜なんですから……」

耳元への囁きがもたらすのは、痺れるような深い陶酔。
そして、身体の奥の疼き。

観念したように瞳を閉じた。
そのまま直江の誘う愉悦に身を任せようとふわりと力を抜く。
これは一刻でも早く眠りにつくためのひとつの儀式なのだと、そう、自らに言い訳して。

そんな高耶を、獰猛な獣の笑いを浮かべた直江がいいようにあしらい始める。
男の意のままに抱かれて、柔らかくしなう従順な肢体からは、ほんのりと甘い香りが漂っていた。                          終 

 




知人さんから頂いたフレーバーコーヒーネタ。
あまりの美味しさに眠れなくなるほどお代わりして呑みました。ほぼ実話です……(マヌケ)
カラになったパッケージは捨てられずにいまだに大事に手許に持ってます(苦笑)
一年以上も前なのにまだ香ります♪




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