『今日、今から、おまえんちに行ってもいいか?』 前触れもなしに突然高耶から連絡がはいったのは、八月の第一週のことだった。 『もちろんですっ!』
即答はしたものの、実家に駆り出される盆を控えたこの時期は、不動産業の手伝いもそれなりに忙しい。 『いいんだ。こっちも暑くてたまんねーから、クーラーあるとこで涼みたいだけ。昼寝したいだけなんだから、オレのことは気にしないでしっかり仕事しろよ?留守番しながら晩飯か…夜食ぐらいは作っておくから。帰りは大体何時になる?』 『そうですねえ。八時か……遅くても九時までには。』
そう告げてはみたものの、愛しい人が独り家にいて自分を待っている。
「……はい?」 応対に出た声は紛れもない高耶のもの。 「ただいま帰りました」 「……直江?」 怪訝そうな声音。 あとに続くのはドアチェーンを外す金属音。
勢いよく開け放たれたドアの向こうに、信じられないという刹那の表情を浮かべた高耶が佇んでいる。 「ただいま……いらっしゃい。高耶さん」 「おかえり。はやかったな…。すぐにメシ、用意するから」
そう云うなり高耶は身を翻してばたばたとキッチンに姿を消した。
大鉢に盛った肉じゃがをつつきながら、高耶が訥々と口にする。 (なんでオレ、こんなしょーもないことをこいつにしゃべってんのかな?) 昔から話すのは得意じゃなかった。今だってそれは変わっていない。 つまらなくないだろうか?
時々、ふっとそんな思いがよぎって直江の顔を窺うけれど、そのたびに直江はにこにこと微笑いながら続きを促すものだから、つい、また、高耶だけが話しつづける羽目になる。 「サンキュ」
湯飲みを受け取って、ふたり、暫し無言で煎茶を啜る。 「そういえば、美弥さんは?おかわりありませんか?」 ふと思いついたような問い掛けに、高耶の動きが一瞬止まった。 「……うん」
さりげない返事をして高耶はまた湯飲みを口元に運ぶ。 そんな高耶に、この日初めて違和感をだいた――
風呂上り、短パン一枚にタオルを引っ掛けた格好でふらりと高耶がベランダにでる。 「…ちぇっ、ダメだ。ろくに星もみえやしねえ」 そう言いながらも、なぜか高耶は遠く視線をとばしたままだった。 「高耶さん?」 ずるずるとしゃがみこんでしまった高耶の気配を察して、すかさず直江が声をかけた。 「どうしました?気分でも悪い?」
そばに寄る男に黙ってかぶりをふってみせる。 そんな直江にちらりと目をやった高耶は、すぐさまほの明るい空に視線を戻し、問わずがたりに小さく言った。 「知ってたか?今日は月遅れの七夕だ…」 「ああ、そういえば……」 「美弥……仙台に出かけてるんだ」 「……」
たったそれだけで、直江は鬱屈した高耶の心情がわかってしまった。
母親にはもう何の含みも持っていない――
以前、高耶はそう語った。
さやさやとそよぐ和紙の吹流しの下を、睦まじくそぞろ歩く美弥たちの姿が目に浮かぶようだった。 「七夕だから……年に一度、離れ離れの恋人同士が逢う、そんなおまつりなんだからしょうがない。美弥には笑って行ってこいと言ってやれた。でも、ほんとは……」
必死で負の感情を抑えこんでいた。
だから今夜は晴れてほしかった。
それっきり俯いてしまった高耶の肩に直江の手が伸びる。 「オレってほんとに心が狭いよな」 自嘲るように呟いて真顔になると、まっすぐに直江を見つめた。 「ごめん。おまえのこと、ダシにした。行かない理由を美弥に問い詰められて、ついおまえの名前をだしちまった……だから……こないわけには行かなかったんだ」 「それだけ?」 「?」 「ここにきた理由はそれだけですか?」 胸の裡を言い当てられたような気恥ずかしさに、つい、視線が泳いでしまった。 「言い訳の辻褄合わせだけじゃなくて……俺に逢いたかったのだと…そう自惚れさせてはくれないんですか?」
正攻法で迫る男に高耶の顔が真っ赤に染まる。 「嘘なんかじゃない。逃げたのでもない。年に一度の七夕の夜だから、あなたはここにいるんです。家族よりも俺を選んだその結果として。 ……そうでしょう?」 ――そうでしょう? ふわふわとした頭の中で、繰り返し再生される直江の声。 ――うん。そうだな……。 木霊のような甘い誘いにそれ以上の逡巡を放棄して、高耶は静かに瞳を閉じた。
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