…ひそひそひそ… ………くすくすくす… 襖一枚隔てた隣りの座敷から微かに人の声がする。 聞き取れそうで聞き取れないさざなみのような気配なのに、 嬉しそうな高耶の返事や楽しげな姉の笑い声だけはやけにはっきり響いてくるから、もどかしいことこのうえない。 全身を耳のようにして聞き耳を立てていると、突然、ぐいっと首の後ろを絞められた。 と同時に叱咤の声が飛んでくる。 「ほらほらっ!余所見をしないで背筋を伸ばすっ!」 うっと詰まって下を見れば、膝立ちで浴衣の両の衿先を引っ張る母と目があった。 「……いい加減あなたも観念してこっちに集中してちょうだい。そうふらふらしていたんじゃいつまでたっても着せられないじゃないの」 そう言う母だって、今日は言葉にも振舞いにもかなりの険がある。言わば自分たちふたりは高耶という油揚げを攫われた負け組なわけで、では誰が鳶なのかというと、 それは、高耶と隣りの座敷にいる姉の冴子なのだった。 高耶と直江の通る大通りの商店街の端にはお稲荷様が祀られている。 小さな祠のお祭りではあるけれど、毎年夏の例祭は夜店も出て花火もあってなかなかに華やかだ。 七月に入って日程を周知するポスターが通りのあちこちに貼られだすと、高耶もこの『お祭り』を楽しみにするようになった。 もちろんエスコートは自分がしたい。でも彼はお父さんといきたいかもしれない。 いつもの朝の道、ポスターの脇でたった今思いついたような顔をして、 一緒に行きましょうか?と誘ってみれば、高耶はうん!と元気よく頷いてくれて。 それだけで、直江は天にも昇る心地がした。 「お祭りなら浴衣が要るわね」 にこにこしながら、こう春枝が言い出したのもまた、当然で。 なにしろ納戸の行李には、昔直江たち兄弟が着た各種サイズの浴衣が山のように仕舞われている。 それらの中から高耶に似合いそうな一枚を選び出すと、早速背丈に合わせて寸法直しをしてしまった。 「お祭りの日にもおばちゃんが着せてあげるわね」 「うん!」 そんな会話があったのにも係わらずそれがあっさりと反古になったのは、ひょっこり帰省した冴子の所為だった。 週末、クラス会があるという彼女は、お祭りの前夜に橘の家に帰ってきたのだ。 久しぶりに娘を迎えたその日の一家団欒はいつもより数倍賑やかで。 目敏く衣紋掛けに掛けてある二枚の浴衣をみつけた冴子は、たちまち新しいお隣りさんついての情報を母や直江から聞き出してしまった。 翌日。 学校が終わっていつものように遊びにきた高耶は、最初、見慣れない(けれどおばさんそっくりな)『きれいな女の人』に吃驚した様子だったが、 『直江のお姉さん』というだけですっかり納得してしまったらしい。毛糸玉にじゃれつく仔猫さながら、たちまち冴子に懐いてしまい、 そして、今も、お祭りに行く身支度を彼女にしてもらっているのだった。 一足先に直江の着つけが済んで、落ち着かない気分で待つこと暫し。 「は〜い。みなさん。ご注目」 芝居がかった声とともに冴子が襖を開け、照れ臭そうな高耶を前へと押し出す。 「まあ、可愛い!…上手く出来たわねえ」 「でしょでしょ?さすが母さん、見立ても着丈もぴったりだったわ」 先程までの無念も忘れた母と姉とが盛り上がる中、直江はぽかんと高耶に見惚れていた。 子どもらしく、たっぷりとした肩上げも初々しい白地に藍の型染め模様に、 胸高に締めた鮮やかな群青の三尺帯。 くるんと冴子が肩を回せば、ふわりとリボンに結ばれた帯結びが見て取れる。 わざと短めに着付けられた裾からはすんなりした脛が半分ほど覗いていて、まったく、絵に描いたような愛らしさだった。 口々に褒められて安心したのか、高耶ははにかんだ笑みを直江にも向けてくる。 「とてもよく似合ってますよ」 そういうのが精一杯、そのまま突っ立っている弟にも、冴子はちらりと値踏みの視線を走らせた。 「義明もまあまあ見られるんじゃない?この年齢じゃ胸板薄いのは仕方ないけど。早く和服がびしっと決まるようないい男に育ちなさいね」 辛口に及第点はくれたものの、いつもながら一言多い姉ではある。 「……ほっといてください。さ、行きましょうか。高耶さん」 口では勝てないのだから逃げるに如かずだ。 ところが、そそくさと出掛けようと誘う直江と冴子を交互に見上げて、高耶が無邪気に問い掛けた。 「冴子さんは?一緒に行かないの?」 瞬間、ぎょっと固まった弟に勝ち誇った一瞥をくれて、冴子は、高耶に対しては慈母のような笑みを浮かべた。 「ごめんねー。冴子さんも高耶くんと一緒に行きたいんだけど。先にお友達と約束しちゃったの。 だから義明で我慢してね」 「ふうん……。そっか…」 「好きなもの、義明にいっばい買ってもらいなさいね」 「は〜い。行こ?直江」 とたんに興味が夜店に向いたのだろう、高耶は直江の手を引き、いそいそと玄関に向かう。 その後に続きながら、冴子はさりげなく直江にお札を一枚握らせた。 資金のカンパは嬉しいけれどそれを素直に顔に出せない。仏頂面の弟の表情がこのときだけ複雑そうに歪むのを見るのもまた、姉の密やかな特権なのだった。 「じゃ、いってきま〜す」 「いってらっしゃい。気をつけて」 見送るふたりに高耶がバイバイと手を振り、それからくるんと背を向けて歩き出す。 暮れるにはまだ間のある夏の宵、はずむ高耶の足取りに背中に結ばれた帯がまるで大きな青いちょうちょのようにひらひらと揺れていた。 「本当に可愛いわねえ……」 感に堪えない風情で冴子が呟く。 「さて、お茶でも一服しましょうか。あなたも、出掛けるまではすこし時間があるのでしょ?」 高耶の後ろ姿を凝と見つめる娘に、微笑みながら春枝が言った。 「素直で利発で可愛くて。……あんな子のお母さんなら、あたし、やってみたいな。仰木さんって独身よね? アタックしてみようかしら?」 差し向かいでお茶を啜りながら、真顔でこんな台詞を口にする娘を、春枝はため息をついてたしなめる。 「……冴子」 「冗談よ」 「……そろそろ冗談ではすまないのではなくて?」 やんわりとした母の苦言を笑い流して、冴子はぱりんとお茶受けの煎餅を割った。 「あたしね、お母さん。お母さんには悪いけどあのお坊様のこと、ずっと眉唾モノだって思ってた。でも違ったのね」 唐突に切り出された昔話に春枝ははっと息を呑む。 割った煎餅を睨む冴子の顔は恐ろしいほど真剣だった。 当時の幼い弟が何に蝕まれていたのか、冴子だって知らない。 解っているのは目に見えた事実。庵に行って帰った日を境に、人形だった弟が、少しずつ人間らしく成長しはじめたこと。 両親は老僧に感謝していたが、思春期でもあった冴子には僧の言葉を素直に信じきれなかった。 前世の想いを封じたなんて、馬鹿馬鹿しい。たまたま家族の献身的な介護が実を結ぶ時期だっただけではないのか?ずっとそんな思いが燻っていた。 そうでなければ報われない気がしたのだ。末弟に尽くした母の苦労も、そんな母を黙って支えた自分たち姉弟の淋しさも。 「でも、違ったのね…」 もう一度、独り言みたいに冴子は呟く。 あの弟はずっと待っていた。『直江』という名で呼んでくれる唯一無二の想い人を。 高耶といる弟の表情は、今まで見たこともないほどいきいきと輝いていた。呆れるほど素直に感情を表すそのバカ正直な反応に、ついちょっかいをかけたくなるぐらい。 ……つまりは、そういうことなのだ。 「昔の義明を憶えているから。あたし、ずっと結婚するのが怖かった。 結婚して、赤ちゃんが出来て、でももし授かったその子が義明みたいに口も利かなかったらって思うと。 あたし、お母さんがしてたようには絶対やれないから。だから、一生結婚しないでおこうと思っていたの。でも、それってかなり不遜な考えだったわね」 浄化されないほどの強い想いがこの世にあるのなら。 それを叶える奇蹟もまたきっとある。あの弟が、小さな高耶と出逢えたように。 人の縁というものはたぶんそんな風にして、巡り巡っているのだろう。 だとしたら、自分の前でそれを断ち切るのはとてももったいない話ではないか。 「今ね、あたし、プロポーズされてるの。まだ返事は保留にしてるんだけど。でも少なくとも今までみたいな理由では逃げないことにする。 ……自分はどうしたいのか、よく考えてみるつもり。悪いけどもう少しだけあたしの好きにさせてね」 「……いつだって、あなたは好きなようにしてたでしょ」 黙って耳を傾けて、最後の最後にようやく混ぜ返してきた母に、違いないと笑って、冴子はおもむろに腰を上げる。 「あたしもそろそろ仕度しなくっちゃ。帰りは少し遅くなります。高耶くんによろしくね。……あの子といるの、すごく楽しかった。また近いうちに遊んでちょうだいって、伝えておいてくれる?」 「それはいいけど……義明はきっとイヤがるわよ?可哀想だからあまり挑発しないでやって」 さりげなく末っ子を庇う春枝の言葉に、冴子は意地悪くにんまりと笑ってみせた。 「あら、いくらお母さんの頼みでもそれは聞けないわ。昔、あの子には散々振り回されたんだもの。 そのときの貸しを、今返してもらわなくていつ取り返せるって言うの?」 末の弟は、いつまでたっても、彼女のオモチャなのだった。 |