露天の風呂は宿の裏山を整地した高台に位置している。 眼下を流れる清流と滴る緑の山々とを一望できる絶好のロケーションなのだが、それも昼間であればの話。
野趣を残した山庭も渓流沿いの散策路も、夜の帳の下りた今はすべてが墨色に溶け込んで、晧々とした脱衣所の明かりに慣れた目にはなおさら、のっぺりした闇があるだけだ。
たっぷりと時間を掛けて身仕舞いを済ませ、点々と灯る微かなフットライトを目当てに本館へと道を戻りかけて、直江は、飛び石から少し外れた植え込みの隙間からぬっと突き出ていた下駄履きの二本の足にぎょっとなった。
「高耶さん?!」
充分過ぎるほど猶予は与えた。とっくに部屋に帰り着いているとばかり思っていたのに。
「おう」
と、植栽の向こう側から応える声にぐるりと回りこんでみれば、光の届かない暗がりの中、組んだ両手を枕にして本人が寝転がっている。
「どうしました?湯あたりでもしましたか?」
くすりと笑う気配がした。
「バーカ、ちげぇよ」
その口調はもういつもの彼で、そのことに、直江は少しだけ複雑な気持ちになる。
「星……眺めてただけ」
その言葉につられるように振り仰いで、息を飲んだ。
「すごい星空ですね……まるで底が抜けそうだ」
「だろ?……久しぶりだ。こんな星空」
決して拓けているとはいえない山間の夜空は、白い霞がかかったように星々に埋め尽くされていた。ひときわ輝く天の川が、黒々とした山影に狭められた地平から天頂へと伸びている。頭を巡らせたどるうちに、平衡感覚が崩れて足元が覚束なくなりそうだ。
高耶が芝生に寝そべる理由もきっと同じなのだろう。
とはいえ風呂上りの身で同じことをするにはいささかためらいが残る。
高耶ほど思い切りよくなれない自分に苦笑しながら、その傍らに腰を下ろした。
そうしてしばらく、ふたり無言で空を見上げた。
そうできることがこのうえなくしあわせだと、そう思った。
「……ありがとうな」
ぽつりと高耶が言った。
「温泉誘ってくれて……おまけにこんな星まで見れて、すごく嬉しい……」
素直に表す感謝の念は暗闇に表情が紛れる故だろうか。それともこの降るような星空に心洗われる気がする所為だろうかと、
直江は真剣に考える。
振り子のように揺れ動く彼の感情。
だからこそ、付け入るような真似はしたくなかった。
「?……直江?」
急に立ち上がった直江に高耶が怪訝そうな声をあげた。
「湯上がりでのど渇いたでしょう?何か買ってきます」
「んじゃ、オレ、ビール!」
「…………」
屈託なく言われて直江はこっそりため息をつく。
どこまで本気か解らない、甘えるような試すような高耶のリクエスト。
大人として扱われたいのか、子どもとしてかまって欲しいのか。
無自覚でいるだけに一層始末が悪い。
直江はしばらく呆れたように佇み、やがて無言で踵を返す。
程なく戻って、高耶によく冷えた缶を差し出した。
「サンキュ」
だが、身を起こしてプルタブを開けた高耶は、ひとくち口に含んだとたん素っ頓狂な声をあげるはめになった。
「なんだっ?!これ?缶チューハイ???」
てっきりビールだと思ったそのアルミ缶の中身は、ずいぶんと甘酸っぱい炭酸の飲料だったのだ。
間髪入れずに澄ました声で直江が言った。
「これが精一杯の譲歩ですよ。なにしろあなたは未成年なんですから」
その口調には、してやったりの余裕が感じられて、なまじの拒絶よりもよけいに腹立たしい。
「くっそー、いちいち腹の立つオトコだなー」
言いながら、高耶は直江の手にあった缶を奪いとる。
止める間もなく一気に呷って、だがしかし、高耶はすぐに口を離して驚いたように問い掛けた。
「………おまえも?ビールじゃなくて?」
てっきり直江は違うものを飲むのかと思っていた。
「似あわねー」
この端整な男に甘ったるい缶チューハイなんて、本当に似合わない。
「おや、失敬な。私だってたまには飲むんですよ」
眉寄せるようにして直江は反論するけどそれは絶対に嘘だと高耶は思う。
「ほんとに?」
「ほんとです。……今日はそういう気分なんです」
それはいったいどんな気分だ?
そう思いながら、高耶は両手に持った缶を困ったように見比べる。
「悪い……。両方口付けちまった。新しいの、買ってくるか?」
律儀にそんな伺いを立ててくる高耶に、直江は薄く笑ったようだった。
「いえ、このままで」
ひょいと高耶の手から片方を抜き取って口をつけた。
うわ〜〜っ!これってもしかしなくても間接キス?!
一人わたわたと赤くなる。
もしも直江にしたり顔で指摘されでもしたらどうしようと身構えていたのに、当の直江は時々視線を空へ飛ばしながら高耶の傍らで悠然と缶を傾けているだけだ。
その仕種があまりに自然だったから、高耶も毒気を抜かれたように座り直し、ちびちびと飲み始めた。
甘くて酸っぱくてほんの少しほろ苦くて。
喉を掠めて落ちていく柑橘の爽やかな香りと炭酸の刺激。
さほど度数は高くないのに、やがてじわりとみぞおちのあたりが熱くなる。
この感じを隣りの男も味わっているのだと思うとなんだか無性に可笑しくなった。
肩を震わせ声を殺して笑ううちに、今度はなぜか涙が滲んできた。
わざわざ自分に付き合ってくれる、そのさりげない気遣いがたまらなかった。
「高耶さん?」
戸惑った声で名を呼ばれる。
その声を聞いたら、ますます涙は止まらなくなる。
返事の代わりに顔を直江の胸元に押し付ける。そうしてしばらく泣き笑いを続けるうちに、おずおずと腕を背中に回されて抱きしめられた。
柔らかく羽に包み込まれるようなその感覚が心地よくて、高耶は無理やりに嗚咽を飲み込む。
この男ならいいのだ。
この男だけがいいのだと確信する素直な自分がいた。
あるいは一時の情に流されているだけかもしれないけれど。 ……酔っただけだと、相手にされないかもしれないけど。
それでもいいやと、とこか突き抜けてしまえるのはやっぱり酔っているせいなのだろうかと、ぼんやりと考える。
自分の中のルビコンを渡ろう。後はこの男次第。
そう腹を括って、縋りつく手に力をこめた。
「酔っ払っちまったみてー。部屋まで……寝床まで連れてってくれる?」
抱きかかえる男の体が瞬間強張る。
「……御意」
応えは、深く深く心に響いた。
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