「ただいま」 そう呼びかけてあけたドアの向こうにはまだ昼の温もりが残っていた。 「おかえり!」 間髪入れずにこちらを振り向き答えを返してくれる彼の笑顔と、身体を包むほわりと暖かな室内の空気。 そしてもうひとつ、馴染みのある清冽な香り。それなのに、一瞬くらりと視界がぶれた気がして。 「……食用菊、ですか?」 彼の手許、山盛りに盛られた花に眼をやりながら、訊くまでもないことを口にした。 「うん。霜が降りる前の最後の花だって。八百屋のおばさんがおまけしてくれた。 下拵えだけすませちゃうから。直江、着替えてきて」 ええ、と、頷きながら、彼から視線が外せない。ネクタイだけを緩めてテーブルの反対側に座り込んだ。 そんな男の様子をちらりと流し見たもののたいして不審に思うふうでもなく、高耶は再び、作業に没頭しだす。 彼が無心にむしる薄紫の花びら。しなやかな指が動くたび、濃密な香の飛沫の迸るのが、眼に見えるようだった。 深く息を吸い込んで、直江が言った。 「本当にいい匂いだ……季節をまるごと頂くという気がしますね。どんなふうにご馳走してくれるんです?酢の物かなにか?」 「えーとね、白胡麻と甘酢であえると美味しいんだって。作り方も教えてもらったから。たぶん大丈夫」 「それは楽しみだ」 「でもさ…」 一度上げた視線を、またすぐに伏せて高耶が口ごもった。 「葉っぱや実じゃなくて花だけをむしゃむしゃ食べるのって、なんかヤバンな感じがしない?こうやって花びらむしるのって、 すっごく理不尽な気がすんだけど……」 器用にうてなと花弁とを選り分けていく手先とうらはら、ぼそぼそと呟くその言葉に、思わず昏い笑みが零れた。 謂れなき罪悪感を抱くほどに、彼は無垢だ。 その無垢なものを汚して我が物としたい牡の征服欲を、まだ知らない。 ましてや、こうして目の前の保護者然としている男が、今、花に重ねて狂おしく自分を眺めていようなどとは。 彼のよせてくれる信頼は、何物にも代え難いもの。 けれど、時々、無性に壊してしまいたくなる。 あとさきなど考えず、ただ衝動のまま、例えば、今のように。 花の汁に汚れた彼の指を口に含み、思うさま舐ってやったら、彼は一体どんな表情を見せるのだろうか? 皮膚に染み付いた菊花の香は、きっと苦く熱く舌を灼くだろう。 「本来愛でるべきものを食べてしまう。確かに少し淫靡で背徳的かもしれませんね……」 独り言めいて答えた自分の声は掠れてしわがれて聴こえた。 喉が干上がる。 記憶の奥底、封じていた何かが蠢く。ずるりと暗い幻影が這いあがってくる。 遠い昔、自分は彼を、この手で―――― ひどい耳鳴りと、眩暈がした。 「直江?」 気遣わしげな声が、どす黒い瘴気を断ち切った。 高耶が、心配そうに覗き込んでくる。 「すごく具合悪そうだ。少し横になったほうがいいよ。オレ、ベッド直してくるから」 腰を上げかけた彼を引き止めた。 「平気です」 「でも」 「すいません。座っているのに貧血起したらしいです。でも、もう収まりましたから。水を一杯いただけますか」 飛び立つように高耶が席を立った。 差し出されたコップの水を一息に干し、 まだ見つめている彼にむりやりに笑って見せる。 「直江、最近働きすぎ。すこし気をつけなきゃ。熱は?」 怒った口調でそう言って、こつんとおでこをぶつけてくる。 額に感じる彼の温かさを逃すまいと、眼を瞑った。 間違えてはならない。 もう二度と彼を失いたくはない。 「大丈夫?」 キスできるほどの至近距離でも、逸らされることなく真っ直ぐ見つめてくるこの黒眸を。 曇らせてはならない。 「…夕飯、お粥かなんかにしようか」 優しいこの人のために。 自分の心は何度でも殺してみせよう。湧き上がる劣情ごと。 「……本当に。大丈夫です。高耶さん」 そうしてすべてを飲み込んで、静かに直江は微笑んだ。 |