揺籃の木の下に



雨上がりの黒々とした地面に点々とピンクの彩りが散っている。
合歓の花だ。
ああ、もうそんな時季になったのかと、高耶は足を止めて頭上を覆う緑を見上げた。
天蓋のように枝を張り出し羽根のように広がった葉の付け根の所々に薄紅の花弁が見え隠れしている。
(開き始めたばかりなのに……)
高耶は再び視線を戻すと、屈みこんで風に折れた枝を拾い上げた。
淡いさみどりのつぼみと瑞々しいピンクの色合いの交じり合う、これからが盛りのはずだった花房は、幸いにもまだ完全に萎れきってはいない。
小さな一輪挿しに生ける分には花丈も充分間に合いそうな気がして、高耶は他にも助けられそうな枝がないかときょろきょろあたりを見渡す。 水を張ったバケツに数本の枝を漬け後は夫人に相談してみようと、日の当たらない場所に置いた。

房飾りのような繊細なこの花に初めて気がついたのは去年の初夏、この寺に寄宿し始めてからだ。
夜になると眠るように葉を閉じるという珍しい木の名前だけは聞き知っていても、それがこんなに身近にあるなんて思いもしなかった。まさか、夏の間涼しい木陰を提供してくれる、駐車場脇のこの木がそうだったなんて。
遠目にもピンクに染まった花盛りの木の様子に美弥が気づき、夫人に花の名を訊ねたことから、ようやく高耶も知識と実物が一致したのだった。
寺に通うようになった数年前から、その木はそこに在るのが当たり前だったから名前なんて気にしなかった。今だって、落ちていた花を見なければ見上げる事もなく、きっと花が咲きはじめたことなど気がつかないで過ごしただろう。
すべてをその羽根の下にくるみ込む親鳥のように、傘のような樹冠で強い陽射しや通り雨を凌いでくれる頼もしい樹。
さわさわと揺れる糸のような花とレースのような葉を持ち女性的とも例えられる優しげな姿なのに、なぜか高耶には直江に重なってみえた。

地鳴りのように唸りをあげて、突風が枝を揺らしていく。
その音に思わず首を竦めて見上げた葉先の向こうには眩しいほどの青空が透けてみえる。
今年初めて本州に上陸し一晩で駆け抜けていった台風は、夥しい雨を降らせたものの、停滞していた梅雨の雨雲も吹き払ってくれたらしい。 久し振りに見る青空は清清しく、何処までも青い。
吹き返しの強い風は早くも熱気をはらんでいて、今日一日の上天気を約束している。
台風の置き土産――ちぎれた枝葉や、飛沫のかかった外回りを掃除するには絶好の日和になりそうだった。

ぼうと空を見上げる間にも、熱い風に晒された石畳のあたりはどんどん路面が乾いてきている。
気を取り直して高耶は握る箒の柄に力を込め、本来の仕事へと戻った。
濡れてへばりついていた葉も水気を失い、箒の穂先が軽々と病葉をすくい取るのが面白くて高耶は無心に箒を動かしつづけ、山門から本堂への参道を踏破した頃、不意に自分を呼ぶ声に顔をあげる。
いつもと変わらず穏やかに笑っている直江の姿に、思わず、駆け寄った。

「お帰りなさい。……その、大変だったな」
夕べ遅くに帰宅するはずが、暴風雨による交通網の寸断で足止めを食っていたのだ。無事ではいるけど何時戻れるかは見通しが立たないと、そう聞かされていたのにこんな朝早くに到着するなんて。夕べは一睡もしていないのじゃないだろうか。
「ええ、酷い目に遇いました。こちらは?何事もなく?」
ろくに寝ていないだろうに、直江の顔にはさほど憔悴した色はなく、それが高耶をほっとさせる。そのとたん、今度はじっと見つめていたことが気恥ずかしくなって、高耶は慌てて身を翻した。
「うん。見てのとおり、ちょっと掃除が必要なだけ……オレ和尚さまに知らせてくる。みんなすごく心配してたんだから」
手にした箒を放り出してぱたぱたと庫裏屋へ駆け出すその後ろ姿を、今度は直江が複雑な思いで凝視していた。

ここ一年で高耶はずいぶんと身長が伸びた。
伸びやかに健やかに……そんな面映い言葉が衒いなく浮ぶほど、彼は身も心もまっすぐに成長している。これが彼本来の姿なのだとしたら、もう何も心配することはないのかもしれない。彼には……彼を縛る記憶など要らないのかもしれない。
今更、修羅の道に引き戻す必要などない。
自分さえ、すべて飲み込んでしまえば。彼への執着を飲み下してさえしまえれば。
これまでそうしてきたように、上杉景虎としての魂は浄化してしまったのだと、自分も周囲も諦めさえすれば。
彼は、自由に未来へとはばたくことができる。

出来るのだろうか――そんなことが?
つい本心が告げる弱音を叱咤する。
出来る出来ないではなく、それは成し遂げなければならないのだと。




十四歳(この時点ではまだ十三歳)高耶さんのお話です。「夏のスケッチ」「コサージュ」から続いています
まだ全体像は見えてません(おい)したがってラストがどういうことになるのか、まだ私自身にもわかっていないのですが、
合歓の木と台風一過と庭掃除する高耶さんはずっと温めていたイメージだったので、この部分だけは多分決定稿…(いい加減)
そしてすでに表紙も用意してます(笑)後は書くだけです(脂汗)
どうかまとまりますように…(拝み)
そして虎目に間に合いますように…(神頼み)




BACK