あれは、晩秋というには少し早い時分だったと思う。 その日は午後から急に時雨れた。 まだ夕方には間があるのにもう部屋の中は薄暗くて、空気が沈んで冷え冷えとして。 禍々しいほど、心細くなってきた。 どうしよう。宿題は茶の間の炬燵でした方がいいのかな? 迷いながら、ランドセルから国語の本を出していたとき。 毛布を羽織った直江にふわりと後ろから抱きしめられた。 「これなら寒くないでしょう?」 耳のすぐ傍で響く大好きな声。 頬に当たる柔らかなネルの風合い。すこしちくちくするセーターの毛糸の感触。 抱えられる腕の確かさ、胡座の中にすっぽり収まる安堵。 そしてなにより。 毛布に満ちる人肌の温かさと直江の匂い。 ―――世界にたったふたりだけみたいな気がした。 漢字混じりの少し難しい文章を、顔寄せ合うようにして、ひとつひとつ直江に読みを教えてもらった。 何度も何度も繰り返してようやくすらすら読めるようになった頃、雲が切れたのだろう、突然、溢れるように窓から光が射してきた。 瞬くうちに夕焼け色に染まった部屋と、眩しそうに目を細めた直江の表情、柔らかな笑顔。 五感すべてで感じ取ったそのときの情景は、しっかり心に根を張っていて、たぶん一生忘れることはないと思う。 甘酸っぱいような痺れるような気持ちと一緒に。 十一という年齢の差は圧倒的だなと、高耶は思うことがある。 今は十一も年上のこの恋人は、昔は自分の保護者だった。 チビの時に入り浸っていた隣りの家の、優しい優しいお兄さん。 いささか寂しい育ちをしていたから、いつもいつも自分だけをいとおしそうに見ていてくれるその眼差しが嬉しくてたまらなかった。 ふわりと包まれて甘やかされる、ピンクのわたあめみたいなふわふわの幸福。 それは、当時の自分には必要不可欠な心の栄養だったのだと思う。 けれど、結局――― 「……刷り込まれたんだよな。あの時に」 夜更け過ぎのベッドの中、毛布と恋人の腕に包まれながら、ぼそりと高耶が呟いた。 「はい?」 「おまえの匂い。それと毛布の肌触りとか、人肌のあったかさとか…。だから、こうされてるとすごく気持ちいいんだけど…」 「だけど?」 促される合いの手に、ちらりと恨めしげな目線を送って溜息をひとつ。 十年経ってあの時の直江の年には追いついた。でも当然のことながら、直江はそれ以上に見惚れるような大人の男になっているわけで。 そのいつまでも縮まらない厳然とした事実に、ムカツクことだって時にはあるのだ。 自分ばかりが男の掌の上、いいように踊らされているようで。 だって「友達」の段階すっ飛ばしての「保護者」のち「恋人」なんて、いやらしいほど計画的、まるでいただくために少女を育てたあの若紫の源氏みたいではないか? 「なんでもねー」 「なんでもないって顔にはみえませんけど?」 不機嫌丸出しのその返事に仰のけようと頤にかかる指先をかわし、高耶は直江の胸元にひたりと顔を押しつけた。 拗ねながらあまえてくるという高耶究極の必殺技に、 直江は目尻を下げながら、ただその髪を梳き背中を撫でる。 その感触の優しさは変らない。昔も、今も。 きっとこれは無意識の仕草。すりよる背中を撫でるのは、直江にとっては条件反射みたいなものなのだろう。 そして自分も。 とげとげした気分がしだいに凪いで、 とろんと霞みのかかる頭で理屈をこねる。 この手に宥められるのがどれほど心地いいか、なにしろ本能に近い部分に刷り込まれているんだから、これはもう、逆らいようがないじゃないか?と。 鼻先を擦りつけて胸一杯に吸い込む直江の匂い。 かわらず安らげるその匂いに、今は少しばかり汗と、それからオスの匂いも混じっている。 湧き上がるのは痺れるような安堵。幸福。……そして奥底からの不穏な疼き。 ……なんかオレも育ったかも…? もう一度そっと視線を上げて窺がえば、心得たように微笑まれた。 うなじを辿る指の動きがとたんに淫靡なものに変っていって――― 誰よりも愛しく想う恋人に、高耶は再び溺れていったのだった。 |