「ところで、留守中の話をまだ聞いていなかった。どうだった?」 眠っているとばかり思っていた高耶が、突然、くるりと身体を反転させてこんな問いかけをしてきた。 きらきらと見上げる瞳にどぎまぎしながら、少しばかり口ごもる。 「どう…といわれましても」 昨夜のことが強烈すぎて、それ以前の出来事は、もう、はるかな昔のようだ。視線を宙に遊ばせて、ゆっくりと記憶を手繰る。 「取り立ててお話しするようなことは、何も。 屋敷内を案内していただいて、辺りの散策に出て、風呂を遣って、夕餉を馳走になりました」 「そうか」 高耶の唇が愉しそうにつりあがる。 「この通りの山の中だ。出逢うのはせいぜいが杣人だから、此処の連中はいささか躾がなってない。 無礼がなかったならいいのだが」 「そのようなことは、なにも」 頭を振りながら直江が返す。そして、高耶と離れて過ごした半日の様子を、順を追って語り始めた。 どれぐらい呆然と板戸を見つめていたのか、ふと、背後に気配を感じた。 刀自然とした媼が佇んでいた。 直江が屋敷内で姿を見たのはこの媼ただ一人、至るところで何か気配は感じても見掛けることはついになかった。 そう告げると、 「化けたのは菊やだな。此処の古株だ。本人はまだまだ若い気でいるが。色仕掛けはなかったか?」 ずけずけと高耶が突っ込む。遠慮のない物言いにおもわず直江が苦笑した。 「……確かにお歳にそぐわぬほど華やかに化粧じておられましたが。とにかく、部屋に案内していただいて、 一服した後、手持ち無沙汰でいる私に散策を勧めてくださいました」 「ふうん?」 「花のことには少々詳しいつもりでいたのですが。まだまだ井の中の蛙だったと思い知らされました。 本当に、此の土地は素晴らしい」 谷川と山懐に抱かれた屋敷は、部屋から眺める借景だけでも見事な景観をなしていた。 が、一歩外へ出れば、圧倒的な緑の存在感が直江を押し包む。 深閑とした空気。何百年もの齢の巨木群。木漏れ日。あちこちから湧き出る清水のせせらぎ。鳥の囀り。葉擦れの音。 視線を落せば、下草に紛れて咲く名もない野草の小さな花々。目の端を掠める虫の気配。 清涼な山の気を浴びながら芒洋と杣道を歩き続けて、 気がつけば、日が傾きかけていた。 「あっという間の数時間でした。 戻った頃には、夕餉の用意もあったのでしょうか、まずは汗を流せと風呂場へ追い立てられてしまいました」 「そうか」 直江にとっては至福の時間だったが、 なぜだかそれを聞く高耶の眉間にしわがよっている。 「……いい按配の湯加減でしたが、その、少々湯が沁みて参りました」 「沁みた?」 高耶の片眉がぴくりと動く。 「ええ、歩く途中、うっかり葉っぱにでも触れてしまっていたんでしょう。知らないうちにずいぶんと手足に擦り傷や虫刺されをこしらえてしまっていて……。 あ、全然痛みはないのですが」 どんどん剣呑になっていく高耶の表情に、慌てて直江は言い添える。 心配させまいとしたのだが、高耶の関心はまた別のところにあるらしい、さらに問いを重ねてきた。 「食事はどんなだった?覚えているか?」 この人が食に興味を示すのは珍しい。直江も努めて詳しく語る。 「……猪鍋に味噌漬け肉の焼き物。炙ったキノコ。川魚の塩焼き。野草の天ぷらに香の物。山菜の和え物。とろろ汁。 ……まさに山の幸が満載の御膳で、大変美味しく頂きました」 「ならよかった」 いつの間にか、高耶の機嫌が直っている。くすくす笑いながら直江の手に顔をすり寄せてきたから、直江もほっと息をつく。 「まあ、結局オレも余禄に預かったわけだしな。昨日のことは不問にしてやる」 「はあ?」 呟きの意味を問い返す間もなかった。高耶が急に手を引っ張って、直江の体勢を崩してきたから。 「うん。いい感じだ」 倒れこんだその腕に頭を載せて枕にし、高耶はひとり頷いて、近くなった直江の貌を覗き込む。 「おまえも少し休め。団扇は不要だ。……いい風がはいる」 そう言って、目を瞑る。 しばらくその端整な貌を正面から眺めて―――いつの間にか直江の瞼も閉ざされる。 やがて静かな寝息が聞こえた。 (こいつ、本当に気づいてないのな) 眠っているはずの高耶が、心の中でこっそりと息を吐く。 長らく足の遠のいていた主が突然姿を見せたのだ。しかも、人間を伴って。屋敷に仕える眷属たちが、目の色変えて、さぞ騒ぎ立てたことだろう。 直江はおそらく『贄』と見做され、喰われるものだと思われ、そのおこぼれを狙って、 『味見』をされたり裸体を覗かれたり、 なにより精のつく食事を供されたのだ。 昨夜の交わりはかなりあけすけなものだったから、ふたりが契って放たれた気を、皆、存分に浴びたはず。 それは、妖にとって、肉を喰らうよりももっと上質な力の源になる。 そういう意味では、眷属も、自分も、当初の目的を達して三方良しの大団円のわけだけれど。 でも。 ふわりと高耶の髪が逆立った。 (改めて言っておく。こいつはオレのものだ。手出しするヤツは報復を覚悟しろ) 高耶の心声が屋敷中に響き渡り、漣のような衝撃が走って、またすぐに静かになった。 (これで、よし) そうして高耶は猫の仔みたいにもぞもぞ動いて直江の腕の具合のいい位置に収まると、もう一度目を瞑った。 抱き合うかのように寄り添って、しあわせな時間をじっくりと愉しむために。 けだるい夏の午後に相応しい、午睡の風景だった。 |