requiem


宣言どおりに一歩も引かなかったその結果、翌日の高耶は、終日ベッドの住人になる仕儀となった。
ある程度は馴染んでしまった疼痛や脱力感でも、ここまでひどいのは初めてだった。
とにかく動けない。
おまけに熱まで出てしまったらしい。眩暈がして頭が枕から持ち上がらない。
起き出す努力を早々に放棄して、かすれた声でその旨を傍らの男に告げる。
とたんにしょげ返った表情で心配そうに覗き込んでくる直江に、高耶はきれいに笑ってみせた。
「オレなら大丈夫だから。……だから、そんな顔してないでさっさと仕事行けよ?オレはたまたま週休だからいいけど……おまえ、今日大事な商談はいっているんだろ?」
「熱のあるあなたを置いてですか?」
とんでもないと首を振る直江に、なおも引かずに言い募る。
「こんなのただの智恵熱だ。少し疲れただけだから、一日寝てれば治る。寝てるだけだから、おまえはいてもいなくても関係ない。だったらより必要とされている場で最善を尽くしてこい。……当てにされているんだろ?」
見上げる視線はすでに反駁を許さない厳しさを秘めている。公私の混同をなにより嫌う彼だから、こうなっては直江に残された道はたったひとつしかなかった。
「……解りました。でも、それが終り次第あなたの元に戻ることだけは許してくださいますね」
覚悟を決めたような男に、ようやく高耶の表情が和らいだ。
「ああ。待ってるから。行ってこい。……朝メシ、つくってやれなくてごめんな」
「高耶さん……」
毅然とした態度で道理を説くそばからこんな他愛もないことを気に掛けるその心根は、どちらもが彼を形づくる本質なのだと解ってはいても、時折、こんなふうに無造作な一言に息の根を止められそうになる。
「…なにか入用なものはないですか?」
直ちには去り難くて、努めて冷静に言葉を発した。
「……じゃ、水差しだけ置いといてくれ。後で欲しくなるかもしれないから」

そんな所望をされて、直江がいったんその場を離れ用意を整えて再び戻ったとき、高耶はすでに静かな寝息をたてていた。
今度こそ憚ることなくその寝顔を見つめる。
朝の光の中で瞼をとざした高耶はいつもより青白く翳りを帯びて、幾分やつれて見えた。
穏やかそうに眠る彫像めいたその貌から続く上掛けに隠された肢体には無惨なほどに刻印が散っているのを男は知っている。
幾度となく注ぎこまれ、搾りとられても、彼はとうとう制止も懇願も口にしなかった。
嵐のような情欲に身を曝し続け、ただ一心に受け止めてくれた。終いに意識が朦朧とするまで。
束の間泥のような眠りを貪ったのは夜が白み始めたころ。
その数時間後には発熱するほどの無体を働いた自分を詰ることなく日常に送り出して、自らの不調は透明な笑顔の下に飲み込んでしまった。

ようやく訪れた凪のような眠りが平安であるように。
直江はそう祈りながら、寝室を後にする。せめてこの愛しい人の意に添うために。そして少しでも早く所用を済ませ、再び傍に戻れるように。




疲弊し切った身体が休息を欲しているのだろう。 高耶はその日のほとんどを眠って過ごした。
まどろみながら夢を見る。次から次へととりとめなく泡のように消えてしまうけれど、胸のうちにあたたかな想いだけが残る、そんな夢を。
時々ふっと目が覚める。一瞬状況がつかめずに明るいうちから横たわっている自分に戸惑ったりする。やがて飛んでいた記憶が甦って苦笑する。軋む身体をなだめながら用心しいしい寝返りを打ち、満ち足りた思いを抱いてぬくぬくと寝具にくるまって再び眠りに落ちる。その繰り返し。

そうして何度目かの目覚めを迎えたとき、傍らに直江がいた。
「あれ…?直江?」
仕事に行ったはずなのに、なんでここにいるんだろ?それともまだこれは夢の続きなのだろうか?
「ただいま帰りました……起こしてしまいましたね。おなかはすいていませんか?」
跪かれて問い掛けられた。その穏やかな声音がやっぱり夢の続きみたいだ。
「……喉が乾いた…水飲みたい」
柔らかく微笑まれ、頭を抱き上げられて口移しに飲まされる。
一口だけのそれはゆっくりと喉を滑り落ち、渇きはそれだけで満たされた気分になった。
もっと?
眼差しだけの問いかけに、もう要らないと首を振る。
そのまま静かに枕に戻されて、高耶は再び眼を閉じる。
直江がいる…それだけでこの上もない安堵に包まれながら。



唐突に寝入ってしまった高耶をいささか拍子抜けした表情で直江が見つめていた。
もちろん夢でもマボロシでもなく、可能な限りの素早さで商談をまとめあげ、詳細は在宅で報告書類の作成を条件に無理矢理に帰宅を早めたのだ。
真っ先に覗いた寝室では何事もないように高耶が眠っていた。それでも様子を見ようと近づいたのと同時にふっと高耶の目が開いたのだ。寝ぼけたようなその顔にひどく幼い表情を浮かべて。

体が未だ眠りを要求しているのだから、まだ休息は充分ではないらしい。
それでも触れた感じで熱も引いてきたのを確かめて、直江がほっと息をつく。
この調子では、口移しのキスも夢の中の出来事にされかねないなと、内心で苦笑しながら、直江は静かに部屋を後にした。当座の宿題を片付けるために。
呼ばれたらすぐに飛んでいけるよう、常に意識の片隅には高耶のことを考えながら。



直江がそばにいる。その気につつまれている。
それだけで心の深いところが満たされた気になってくる。
眠りながら感じていた直江の気配。そっとドアが開けられ、また閉められる微かな音。
夢うつつに微笑みながら、また睡魔に飲み込まれていく瞬間のこのうえない至福。

が、幸福であればあるだけ、薄ぼんやりとしたいいようのない焦燥が澱のようによどみだす。
なにか、大切なことを見落としているような気がして。
優しい夢はいつか悪夢に変わっていく。
底なしの泥沼に足をとられて、或いは群がる子鬼にわらわらと縋りつかれる、そんなものに。
冷や水を浴びせられたようなそんな急激な覚醒で眼を見開いたその一瞬、不意にその正体に思い当たった。

折しも、ドアを開ける気配がしてぎくりと身体が強張った。

まだ直江には気づかれたくない。気づかずにそのまま行ってほしい。そう、オレはまだ眠っているんだから。それだけだから。

そんな内心の願いも虚しく、直江は高耶が背を向けいてたベッドサイドを回り、静かに枕もとに腰を落とす。
瞼を閉ざしてはいても彼が起きているのを見透かしたように。
根負けしたようにため息をついて、狸寝入りを諦めた。
「……おまえにはわかっちまうんだな」
「ええ」
理屈でなく伝わってきた。たとえ、先ほどと寸分変わらぬ寝姿でも。ぐるりと回って確かめたその顔に苦痛の色や涙がなくても。彼が起きていて、心で泣いているのが。
なだめるように髪を撫でる仕草を、陶然と高耶は受け入れる。
やがて屈託を吐き出すように、ぽつりと呟いた。
「あの娘のこと、考えてた……」
「……そうですか……」
淡々とした合いの手に高耶が大きく息をつく。そして昨夜は言葉に尽くせなかった心の裡を語りはじめた。
「忘れていたと言った、覚えていなかった……それは嘘じゃない。でもほんとは……心の何処かであの娘の死を確信していた。オレは彼女を踏み付けにしたんだ。自分の傷まで彼女に被せて。
あの場に居合わせた全員の死で、全てなかったことにしたかった。被害者も加害者も受けた仕打ちも傷も…すべて消え去ったのだと。そう思いたかった……。
そうしなければ生きて行けなかった。いっそオレが死んでしまいたかった。
オレにはそれが許されなかったのに、彼女は………」
噤んでしまったその先を直江が引き取る。
「ひとおもいに死んだ方がましだと思った?生き延びて恥を忍ぶよりは?……正直な話、どちらがより悲惨かなんて他者には判らない。それを決めるのは彼女一人、そしてその彼女はその機会すら奪われてしまった…それが事実です」
「おまえもオレを責めるか?直江……」
見上げてくる眼差しに、首を振る。
「間違えないで。あなたを糾弾したいんじゃない。……彼女には女の身であればこその強かさがあると思ったまでのこと。朋輩たちのあの行為が正当化されるわけじゃない。彼女は運がわるすぎた……」
「……妬んでいた。ずっと。あっさり逝ってしまったあの娘のことを。でも、結局生きたくなかったオレが生き長らえて……そしておまえとこうして過ごしている。幸福を噛みしめてる。……そう思ったら、急に彼女に申し訳なくなった……」
視線を合わせない高耶の声はすでに潤んでいた。
彼女の悲嘆。彼女の未来。
忘れ果てたと思っていたもの。封じていた記憶が一気に押し寄せてきた。
自分だけ幸福であることへの、その慙愧とともに。

枕に顔を伏せ静かに慟哭を始めた高耶を、痛ましそうな眼で直江が見つめる。
一人だけ手放しの幸せに溺れない。溺れられない。それがこのひとの本質なのだと承知してはいても。そんな高耶が愛しく、そして不憫で。
直江もまた、心のうちに背反する嵐を抱え込む。
「……あなたのせいじゃない。言ったでしょう?彼女の運が悪すぎたんです。
そしてね、高耶さん、功徳を積んでも現世で不幸だった魂は来世できっと報われる……。
祈って、そして信じましょう。あの娘の魂は浄土に迎えられて、今頃は生まれ変わって今度こそ平穏な幸福の中にいる事を。それが私たちにできる唯一の手向けですから……」

彼女の魂に平安を。そしてなによりこのひとの魂に安寧を……
そう念じながら、直江も瞑目したまま、高耶の嗚咽が止まるまで静かにその背を撫で続けていた。




引き伸ばされていた刻がとうとう追いついたように、翌日から、百合の花は急速に枯れはじめた。

見るかげもなく茶色く萎れた花のひとつひとつを、高耶は丁寧に更紙に包み、袋に入れた。
「土に還してやれたらいいんだけどな……」
ゴミとして処分するしかないその包みを見ながら、やるせなさそうな顔をする。
その百合の亡骸に誰の面影を重ねているのかは切ないほどに解ったから、直江は後ろからそっと高耶を抱きしめる。
「どこか埋める場所を探しに行きましょう……この花のために。公園の隅にでも。そして時季が来たらその場所に球根を植えたらいい。……彼女を忘れないその証に」
「…………」


夏が来るたびにきっと大輪の花が咲く。
鎮魂の想いとともに。祈りを、願いをその香気にのせて。
生まれ変わった彼女の生が幸多きものであるように。
 



「夏宵悠遠」の後日譚です。 蛇足かとは思いつつどうしても書き足さずにいられませんでした。
私も女のハシクレですからこの手の暴力には過敏にならざるを得ません。実話でも創作でも見聞きするのもイヤです。
それなのに、よりにもよって自分の話にそんなシーンを入れるか?普通??とずいぶんやさぐれました。
それでも、これを書かないことには話自体が成り立たず、しかも話を繋げる関係上本文中ではなんのフォローも出来ないまま
道具みたいに切り捨ててしまったあの女の子のために、せめて、高耶さんにきちんと泣いてほしかった……それが動機です。




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