彼は気づいていないけれど。 実は、彼との出会いは、彼の認識している『初対面』よりもう少し遡る。 彼が気づいていないから、自分も口にはしないけれど。 彼すら知らない彼との邂逅は、彼という宝物の一部、最初の小さな煌きとして心の中に棲んでいて、決して消えることはない。 それは秋というより冬の始まり、シーズン一番の冷え込みの朝だった。 電車を降りた人々が改札へと向かうその雑踏の中、前を歩く青年がポケットから何かを取り出そうとして その拍子に手袋が滑り落ちた、その青年が彼だった。 反射的に身を屈めて拾うのとほぼ同時、彼も落としたことに気がついたのだろう、 ぱっと歩みを止めて振り返る。 「落としましたよ」と言うまでもなく差し出したそれを、彼も会釈で謝意を示して受け取って、 すぐさまくるりときびすを返し人の流れに紛れていった。 ほんの一秒足らずの出来事。 目を合わせることはなかった。 彼は終始俯きがちで、だから当然顔立ちも定かでないのに、美しい人だと思った。 細身の長身、足早に立ち去るときの後姿の印象がそう思わせたのかもしれないけれど。 そんな彼が持つにしては、拾った手袋はいささか似つかわしくない気がした。 なにしろフランス国旗みたいにポップな色遣いの、一目で手編みと解るものだったから。 彼女からのプレゼントだろうか。 その彼女が一生懸命編んだものだから、少々編目が不揃いでも派手な色合いでもああして身につけているのだろうか。 なんて初々しい。 自分の空想に過ぎないのになんだかそんなふたりが微笑ましくて、そして少々薄汚れてしまった我が身とをつい引き比べてしまった朝だった。 しばらく経って、その彼と思いがけない再会を果たした。 姪っ子の通う幼稚園のお楽しみ会。そのメインイベントになるはずの人形劇にアクシデントが起きたらしい。 有無を言わさず召集を掛けられ、人手が足りないからと、急遽スタッフに組み込まれた。 舞台の組み立てや運搬ならまだいい。実際そういう裏方名目で姉に押し切られたはずなのに、 いざ手伝いに入ってみれば、矢継ぎ早に指示が飛び、気がついたら、人形の操作まで受け持たされる羽目になった。 「大丈夫、落ち着いて、オレにあわせてくれればいいから」 そういう人形の相方は、右往左往する自分たち助っ人にてきぱき指示を出していた青年だ。 舞台の影で腰を落とし身を寄せ合っていると、嫌でもその青年の横顔が目に入る。 つややかな黒髪。操り棒の先を見つめる真剣そのものの眼差し。なんだか見覚えのある背格好。 あの時の! かちりと記憶のピースがはまって、後は、無我夢中だった。 結果的に大きなミスをすることなく、人形劇は幕を下ろした。 全体が撤収する頃には、元々のメンバーが集まっていて (事故の巻き添えで半数以上が遅刻を余儀なくされていたらしい)そのまま慰労会へと誘われた。 断らなかったのは、もう少し彼と話してみたかったから。 仲間に囲まれて責任者の重圧から解放された彼からは、先ほどまでの抜き身の刃のようなオーラが消え、引っ込み思案の青年に戻っていた。 いつの間にか他人行儀の敬語に戻ってしまって、それでも一生懸命受け答えしてくれる彼が好ましかった。 もっと彼に会いたい。話をしたい。 気がつけば、どんどん彼にのめり込んでいく。 人見知りをする彼がようやく気を許してくれて再び気安い物言いになって。 それでも『年上の友人』という立ち位置を崩せなかったのは、あの朝に拾った手袋のせいだった。 『彼女』の存在を遠まわしに何度か尋ねた。 彼はそのたびにきょとんとして、 「そんなんいない」と答え、仕舞いには怒り出してしまうのだけど。 これほどに魅力的な彼のこと、自身の否定をそのまま鵜呑みには出来なかった。 夢のように愉しくて、でも切なくて。 そんな逢瀬が続いたある日、彼が、恥ずかしそうに頼みごとを持ちかけてきた。 「贈り物にするアクセサリーを見立ててほしい」と。 奈落に落ちる思いで、作り笑いを浮かべ、 「どなたに?」と訊いてみる。 「妹」 あっけらかんと彼は答えた。 「もうすぐ誕生日なんだ」と。 「直江のこと話したら、大人のセンスのネックレスが欲しいんだってさ。オレの見立てじゃいまいち信用できないって。 ナマイキだよな。自分だってガキのくせに」 話す言葉と裏腹、その表情と口調は優しさと愛おしさに溢れていて。 あの冬の朝、自分が空想したふたりの関係に重なった。 「妹さんは編み物なんかもなさいますか?いえ手芸の好きなお嬢さんならアクセサリーも手作りするかもしれないと思って……」 この期に及んでもまだ直裁には訊けずに語尾を濁す。 彼はいつもの表情でこちらを見上げて、そして屈託なく頷いた。 「うん。そういや去年は編み物にはまってたな。 それが酷いんだぜー。自分用に編んだのがかなり大きめに仕上がったらしくて、そいつをオレに使えって押し付けてくんの。もう、派手派手で恥ずかしいったら!」 そうだったのか!あの手袋は妹さんの……。 叫びだしたいほどの歓喜が身のうちから湧き上がってきた。 『手袋の彼女』は存在しない。 これからはもう誰に遠慮することなく、高耶の心を射止める努力をしてかまわないのだと。 今はまだ『年上の友人』。でもここから距離を縮めていこう。 長い長い種か準のトンネルを抜けて、ようやく彼を一泊旅行に誘い出せたのは、それから程なくのことだった。 |