ここ数日、うんざりするような雨の日が続いている。 卯の花くたしとはよく言ったもので、 傘を差していても細かな水の粒が何時の間にか衣類を湿らせ染み透って、 身体の中まで黴てしまいそうな鬱陶しい梅雨の時期。 一向に熄む気配のない雨模様の帰り道、どんよりと低く雲の垂れこめた空を見上げて、直江がひとつ、ため息をついた。 これでもう何日、青い空を見ていないだろう? さほど能動的というわけでもない自分でさえ、こうも気が滅入るのだ、 外で元気に遊ぶのが仕事のような年頃の高耶にはさぞ退屈な季節だろう。 思い切り身体を動かせるように、今日は広々とした本堂へでも誘ってみようか。 そんなことを考えながら、家についた。 「ただいま」 からからと引き戸が小気味よい音を立てる。 が、その音を合図のようにして「おかえりなさいっ!」と出迎えてくれるいつもの声がない。 「?」 不審に思いながら茶の間を覗き、ついで台所を覗いてみた。 「あら、お帰りなさい」 とこれは春枝の声。 「ただいま」と、条件反射のように返してから訊いてみる。 「高耶さんは?」 開口一番の息子の問いに苦笑しながら春枝が応えた。 「まだよ。ランドセルを置いてくるのだと思うけど、その辺で会わなかった?」 ああ、そうだったと、思い出す。最近の高耶は一度帰宅という形を取ってから、夕方までこの家で過ごす手筈になっている。 何かと物騒な昨今、下校途中の寄り道はいけないとかなりきつい注意が行き渡ったらしく、 もう此処にはこれないとしょげる高耶を、じゃあ、一度家に帰ってそれから遊びに来ればいいのだと、 母とふたりがかりでまるめこんで納得してもらったばかりなのだ。 その微妙な時間のずれに、まだ感覚がついていけない。 「途中では見かけませんでしたが…」 「じゃあ表の道路じゃなくて裏を回ってくるのかしら」 高耶の住む家作からこの家には、林に沿って寺の駐車場を抜けて庭づたいに来れないこともない。距離はさほど変わらないが、 むしろ子どもにはそういう道なき道が楽しいかもしれないと思い直して、直江は言った。 「ちょっとそこまで迎えに行ってみます」 「お願いね」 帰り着いたとたん着替えもせずにそそくさとまた玄関へ向う息子を、春枝は笑いながら視線だけで見送った。 家にいたのはほんの数分。 なのに、その少しの間に思いがけなく雨脚は強くなっていた。 傘に当たる雨粒がぱらぱらと賑やかな音を立てる。 急いで庭を突っ切り木戸から墓参客用の駐車場に出ようとした時、 敷地の外れ、林の傍に高耶の姿を見つけた。 思わず、脚が止まった。 まるで一幅の絵のようだった。 雨に煙る風景。 滴るように鮮やかな若葉の彩。 その木立の外れ、黒々と水を吸った地面。 幾重にも散り敷かれた白い花びら。 其処に高耶が佇んでいる。 傘の柄を肩に担ぐようにして一心に何かを見上げている高耶の横顔。 その真率な表情に、ただ見惚れた。 何度見ても見慣れることはないのだろうと、思う。 何度でも自分は心奪われる。 高耶の何気ない仕種ひとつ、表情ひとつに。 おそらく、そして願わくは、一生涯の間。 どれだけそうして立ち尽くしていたのだろう。 高耶が不意に視線を向け、直江を認めて顔が輝くのに、ようやく呪縛が解けた気がした。吸い寄せられるようにして高耶に近づく。 「おかえりなさい。何を見ていたの?」 「うん、ただいま。直江もお帰りなさい。……この木、花が咲くんだね。ちっとも気づかなかった」 そう言って高耶はまた上を見上げた。 「まるで星みたいだ……」 張り出した枝いっぱいにぶら下がるように咲く白い花。星のような五枚の花弁。 雨の時期に紛れるように、エゴノキがひっそりと可憐な花をつけていた。 繁る葉に隠れるようにして咲くから、一寸見には解からない。 散り落ちた花びらが枝の下の地面を白く染めてその存在を知らせてくるまで。 ひとたび気づけば、其処には視界一面を埋め尽くすようにして天と地に満天の星が在る。 「……すごくきれい……」 雨に打たれてまたひとつ、楚々とした星の花が地に落ちる。 くるくると竹とんぼのように回りながら舞い落ちる花を追いかけて、高耶がしゃがみ込む。 ふわりと芳香が漂った。 地表近くに淀んでいた大気が高耶の動きに巻き上げられて、沈んでいた花の香があたりを満たす。 「いい匂い…」 くんと高耶が鼻をうごめかせた。 「本当だ」 つられるように屈みこんだ直江もまた、胸いっぱいに香気を吸い込む。 降りしきる雨に溶けるその艶麗な香りに、なぜだか泣きたいような気分になった。 遠い昔、同じような光景を確かに自分は視た気がする。 それは記憶とも呼べないほどにおぼろな既視感だけど。 ひとつふたつと高耶が拾い上げた小さな花はまだその瑞々しい白さを喪ってはいない。 大事に掌にくるみこんで彼が言った。 「水に浮かべたらきっときれいだよ。……今日のおみやげ」 にこりと笑うのに、夢から醒めたように直江もぎこちなく笑みを返す。 彼が微笑って傍らにいる。 そのことにとてつもない安堵と切なさをおぼえながら。 |