仔猫は梨が好きだった。 薄茶の地肌に微かな翠を刷いている和梨。 小ぶりだけど美味しかったわよと出入りの編集者がテーブルの上にひとつころんと残していったはしりのそれは、果物というよりはまるで玩具のボールのよう。 彼が気を惹かれるのもまた当然だったかもしれない。 見慣れぬモノに用心しいしい近づいてふんふんと匂いを嗅ぎ、鼻先を押し付け小さな前肢をあてて無心に転がそうとする。 爪を立てられてはたまらないから、慌てて彼から梨を取り上げた。 「これはね、あなたの玩具じゃないんですよ」 口を衝いたのは確かに正論。なのに凝と見つめる物言わぬ瞳に後ろめたくなってしまって。 「待っていて。今剥いてあげるから」 そう、とりなすように呟いた。 さり。 ざらついた見掛けとうらはら、存外に薄い表皮は自ら弾けるようにナイフの刃を受け入れて、その瑞々しい果肉を露わにした。 さりさりさり。 器用に男の手が動いて滑らかに刃が進む。 あとからあとからしたたる果汁が一雫、鋼を伝い指を伝い、つぅっと手首から肘にかけて流れ落ちた。 払う間もなかった。まくりあげていたシャツの布地に吸われようとした瞬間、小さな肉色の舌が閃いてその雫を舐め取った。 にゃあ。 仔猫が固まった男を見上げ、一声鳴いた。 果汁のあまさが気に入ったのか、はやくよこせと催促する。 不意打ちの感触に手の止まっていた男は、慌てて作業に没頭する。 指先以外をこの仔に舐められたのは初めてで、そのこそばゆさに頬が緩むのを感じながら。 大急ぎで皮を剥き、食べやすいよう薄くへいだ一切れを彼に差し出す。 しゃりしゃりと小気味よい音をさせ仔猫は夢中になって梨にかぶりついた。 たちまち食べ尽くしたその後は、ぺろぺろと自らの口を拭いたった今まで梨を持っていた指を舐め、 そして再び男の顔を見上げてにゃあ、と鳴く。 その意味は明白で。 「今日はもう、これでおしまいですよ」 男は笑いながら、さらなる一片を削ぎとったのだった。 「直江ーっ!」 庭先から元気な高耶の声がする。 「ねーさんからクール便!梨みたいだけど?」 そう言いながら抱えたダンボール箱を掃き出し窓から床に置き、汗を拭う彼からは、草いきれと土の匂いがする。 まだまだ暑い最中、彼は庭仕事に精を出しているのだ。 「有休取って梨狩りに行くって張り切ってましたからきっとそのおすそ分けですね。シャワー浴びてらっしゃい。 冷えているうちにいただきましょう」 「うん!」 嬉しそうに頷いて、けれど高耶はまた庭へと戻っていった。 此処を突っ切った方がずっと早いのに、泥だらけの手足で書斎に上がりこむのは気が引けるらしい。ぐるりと回って勝手口から入るつもりなのだ。 思えば自分にもこの家にもずいぶんと慣れてくれた。でも彼は自らを律し決して馴れ馴れしい真似はしない。そのゆかしさが好ましくもあり焦れったくもあって、 直江は苦笑を深くする。 少なくとも、こうして共に暮らしていられるのだから。 そのことだけでも喜ぶべきなのだろうと考え直して。 ずしりと重たい箱をキッチンへ運び、ふたつほど取り出して残りを仕舞う。 梨のための器を取り出し高耶のために麦茶を用意し、さていよいよ皮を剥こうかという頃合で着替えた高耶がやってきた。 「そんなの、オレがやるのに」 家事全般は自分の分担と決めている高耶である。慌てたように近づくのを余裕の笑みで直江がかわす。 「高耶さんは朝から庭で働きづめだったでしょう?麦茶でも飲んで一息いれてください。 こうみえても皮剥きは得意なんです」 本当に? そんな疑問符を顔に貼りつけながらも高耶は素直に椅子に座り、氷入りの冷たいグラスに手を伸ばす。 ちらちらと目の前の男の手元を窺う視線にやがて感嘆の色が混じった。 「本当に上手なんだ」 「昔、ずいぶん練習しましたからね…」 優しい笑みを浮かべて直江が言った。 梨の好きな仔猫のために。 あの年は毎日彼のために梨を剥いた。 けれど、歯触りのいい和梨の季節は思いのほか短くて。 『残念だけど、また来年のお楽しみですね…』 『にゃあ?』 もちろん人間の言葉を解さない彼は、 その年最後のひとつを彼に与えて小さく息を吐いた自分のことを、不思議そうに小首を傾げて見上げるばかりだった。 そして、次の季節が巡ってきても、彼のために梨を剥くことはとうとうなかった。 さりさりさり。 懐かしくほろ苦い感傷に浸りながらナイフを動かす。 果樹園直送の新鮮な和梨は、あの時をなぞるかのように同じ瑞々しさで。 迸る果汁が手首を伝うのまでが一緒だった。 その雫を追いかけるように肌の上を柔らかなものが這って、直江はぎくりと身を強張らせる。 テーブル越し、身を乗り出しながら屈んだ高耶が、あろうことか自分の腕を舐め上げているのだった。 「た、高耶さんっ?!」 記憶にあるのよりずっと熱く生々しい感触に総毛だつ思いがして、声が裏返った。 「あ…、ごめん」 間近に見交わす彼の眼差しは至って平静だ。 「汁、シャツにつきそうだったから。ほら、梨の汁って染みになると落ちにくいし。つい咄嗟に」 口で吸ったと言う高耶に、思わず間の抜けた返事を返した。 「ああ…。それはどうも。ありがとうございます」 ちらりと疚しい連想が働いた自分と裏腹、こんなにも真っ直ぐで天真な彼に、ふつふつと笑いがこみあげる。 「直江?」 やっぱり舐めるのはまずかったか?と困り顔の高耶に、笑みは消せないまま首を振った。 「いえ、なんでもないんです。それより、さあどうぞ」 剥き終えたばかりの一切れを差し出した。 「……ありがと」 まだ不審を残しながらも、手にした梨をひとかじりすれば、たちまち高耶も破顔する。 「おいしい!」 「それはよかった。次々剥いちゃいますから。どんどん食べてくださいね」 「うん!」 まだ淡くていいのだと直江は思う。 こんなふうに高耶が笑っていられることが自分の幸福。 無理に急ぐことはないのだと。 これからは、毎日彼のために梨を剥こう。 この秋が終ってしまっても、また来年も、その次の年も。 愛しくてたまらない大切な彼とずっとこんな穏やかな時間が過ごせることを念じて。 |