その日、帰宅した直江がことりとテーブルに置いたのは、花を封じ込めたガラスのカップだった。 「なにこれ?花が入ってるけど…お酒?」 目敏く見つけた高耶が、興味津々、目の高さに持ち上げて、ためつすがめつ眺めだす。 「休暇明けの同僚からもらったんです。旅行先のお土産だそうで……」 「ふうん………きれい…」 生返事を返して、高耶は花に見惚れたままだ。静かにグラスを回しては、ゆらゆら向きを変える花に釘付けになっている。 蜜の色したワインの中に閉じ込められているのは、一輪の八重桜の花。 グラスを揺らすたび、瑕ひとつなく透ける花びらをチュチュのようにひらめかせてはバレリーナのような優美さでふわりふわりと舞いあがる。 まるでスノードームで遊ぶ子どものよう、グラスの上下を入れ替えて花の動きを愉しんでいた高耶が、やがて、名残惜しげに手の中のそれをテーブルに戻した。 そして、直江の方へと滑らせる。 「はい。どうぞ。……それとも冷やした方がいいのかな?冷蔵庫に入れとこうか?」 小首を傾げて伺いをたてる高耶に、直江は緩く首を振った。 「……しばらくはこのままで。ここに置いておきましょう」 「いいの?飲まなくて?そのためのお土産なのに?」 驚いたように問い返されて思わず苦笑する。彼は本当に真っ直ぐで――とても律儀な性格をしている。 「確かにそうですが。実を言うと、手をつけるのがもったいないんです。せっかくワインの中できれいに咲いているのに。あけたらきっとこの形ではいられなくなるから」 それに、と、悪戯っぽく笑いながら付け加えた。 「封を切ったら私一人で飲まなくちゃないですが。このままならふたりで眺めていられるでしょう?」 「でも、このまま出しっぱなしにしといて大丈夫かな」 もう一度手にとって今度は注意深くラベルを読んだが、賞味期限はどこにも記されてはいないようだった。おそらくは捨ててしまった外装の方に印字されていたのだろう。 考え込む顔つきになる高耶を、宥めるように言い添える。 「まあ、お酒ですから。蓋を開けさえしなければ傷むこともないと思いますよ?……さすがに、何年もこのまま、というわけにはいかないかもしれませんが」 「だよなあ…」 がくりと肩を落とした彼が何を考えたかは容易に想像がついたから、直江は微笑を禁じえない。 「心配しなくても高耶さんがハタチになったらおなじもの用意しますから。ね?今は眺めるだけで我慢して」 「六年も先の約束かよ?」 はあ、と重たげな溜息をつきながら、それでもそれ以上強請らないのは、その先の断固とした直江の答えを知っているから。 こんなふうに高耶を守り導く保護者の姿勢を、直江は決して崩さない。 その後、いつものようにふたりでお茶を飲んで、他愛もない互いの一日の話をした。 やがていつもの時間が来て高耶がすっと席を立つ。 「じゃ、オレ、明日の予習してくるから。おやすみなさい」 「はい、おやすみなさい」 椅子に座ったまま眼差しだけで送った彼の姿がドアの向こうに消えてはじめて、直江が深く息を吐いた。何処か潜めた、苦しいような響きだった。 戻した視線の先は、センタークロスの上、オブジェのように置かれた花のワイン。 先程高耶がそうしていたように、そっと手にとって花を眺めた。 酒精の中、軽やかに舞う可憐な花。 はかない生命を小さな世界に閉じ込めた束の間の永遠。 彼はただ意匠と造形の美しさに感嘆していたけれど。 彼は知らない。自分が花と彼とを重ねていたのを。 直江の貌が自嘲に歪む。 蜜色のワインは甘露のごとくあまやかさで咽喉を滑りおちるだろう。でも。 一度封を切ったら、もう取り返しはつかない。 封切らずにいたとしてもいずれ終焉はやってくるけど。 それでも自分の所為で無惨に拉げる花の姿をまだ見たくはない。 彼がこんな自分を信頼しあけっぴろげな笑顔を向けてくれるうちは、まだ。 その僥倖を自分の手で壊すなど、とても――一 男の懊悩など知らぬげに、 グラスの中の花は、ひらひらとその花びらを揺らしていた。 |