うららかな陽気が続いて日に日に春めく弥生の宵に、つい賑やかな花見の話題を持ち出したのは、
直江と十六夜のいったいどちらだったろうか。 実のところ、残月楼の奥庭にも見事な桜は植えてあって、花を愛でるのにまったく不自由はないのだが。 花を観にお弁当を持って外出をする。 この一事にぱあっと輝いた高耶の表情を見てしまっては、叶えないわけにはいかなくなった。 とんとんと話がまとまって、さてその当日。 伴うのは高耶と十六夜だけと思い込んでいたから、 もう一人まじった大柄な若衆の姿に直江はいささか面食らった。 「卯吉も一緒……ですか?」 こそこそと耳打ちすれば、 「もちろん」 打てば響くように返事が返る。 「お弁当に御酒に敷物。卯吉じゃなけりゃいったい誰がこの大荷物を持ってくださるんです?」 しごく真っ当な言い分ではある。 実情はどうあれ、表向きは旦那と太夫と禿の外出なのだ。旦那自ら荷物を担ぐわけにはいかないし、 店側としても、屈強な供を付けねば、喧噪の中への外出には差し障りがあるのだろう。 これも廓の習い、面倒だが仕方ないことと諦めの息をひとつ。 そうしてしきりと辞退する卯吉にも無理やり俥を割り振って、一行は、花見遊山へと向かったのだった。 御苑の桜は、今が盛りだった。 桜と人の多さと。 そのどちらにも、高耶は目を丸くしている。 きょろきょろと辺りを見回してはつい足が止まり、また小走りになる様子が愛らしくて。 桜を眺めるより出店を冷やかすよりまずは落ち着くほうが先決と、直江は早々に目当ての場所に陣を張った。 「いいお日和ですねえ」 ゴザを敷き毛氈を重ね、用意の酒肴を広げながら、十六夜が言う。 頭上には張り出した桜の梢。 さらにその上には春霞のやわらかな蒼天。 あるかなしかの微風に花びらの舞うのがまたなんともいえない風情で。 「さ、先ずは一献」 そうして十六夜が直江を促し手にした杯に酌をする、それが宴の始まりだった。 菜飯に蒲鉾、卵焼き、鶏の松風、鰆の付焼き、筍の煮物、そして数種の香の物。 次々開けられる重箱には旬の素材を使った品が彩豊かに詰め込まれていた。 「これは見事なものだ」 思わず目を細めた直江に、得意げに高耶が返す。 「でしょ?全部太夫のお手作りなの」 てっきり仕出しを頼んだとばかり思っていたから、これには仰天した。 このひとに料理なんかできたのだろうかとこっそり傍らの十六夜を窺えば、こちらの心中はお見通しとばかりに楚々として微笑まれる。 「大切な旦那さまとのお花見弁当ですもの。高ちゃんとふたり久しぶりに腕を揮いましたのよ」 殊勝なその台詞が妙に空恐ろしい。けれど、高耶と顔を見合わせ秘密めかして頷きあうさまは、本当に仲睦まじくて。 「いただきます」 と、 直江は神妙な顔で、皿に取り分けられたその力作を口に運んだのだった。 料理はどれも美味しかった。 素直に感嘆の声を上げると、またしてもふたりにっこり笑いあう。 「それはね、高ちゃんが拵えたのよ」 ケシの実がふられ香ばしく焼きあがった松風を摘む直江に十六夜が声を掛けた。 「でも味付けしてくれたのは姐さんで」 「野菜や蒲鉾の飾り切りしてくれたのも高ちゃん」 「あ、でも蒲鉾は魚長さんのだし、卵を巻いたのも姐さんだし」 「お米を研いで美味しく炊いてくれたのは高ちゃんよね?」 まるで手柄を譲り合うよう、掛け合いで次々明かされる内情に、堪えきれずに直江が笑った。 「……よく解りました。お二人の心のこもったお弁当だからこんなに美味しいんですね。どうもありがとうございます。 太夫も、そして高耶さんも」 真摯な言葉で褒められて気恥かしくなったのだろう、頬を染めて高耶が俯く。 けれど変らず注がれる優しい視線に、やがて嬉しそうに小さな笑みを返してくれて。 爛漫と咲き誇る花よりももっと愛しいと、直江は思った。 「ささ、卯吉さんもどうぞ。遠慮しないでおあがんなさいな」 隅に畏まった卯吉にも、十六夜は声を掛ける。 「へえ」 最初、下働きの身で太夫お手作りの弁当や旦那と同じ上等の酒を戴くのは畏れ多いと緊張していた卯吉だが、 今はもっと気になることがあるらしく、十六夜の酌を受けながら、おそるおそると訊いてくる。 「あの、太夫、不躾なことをお伺いしますが。直江の旦那と高耶嬢ちゃんは、いったい……」 先ほどからふたりが醸している雰囲気はとても普通の旦那と禿のものではないと、ようやくこの朴訥な若者にも察せられたらしい。 さすがにそれ以上は言い出しかねて口ごもるのに、十六夜が静かに人差し指を当ててみせる。 「私はただの当て馬。見ての通り、旦那さまはあの子にぞっこんなのよ」 「へえ…。それはなんとも」 妙齢の美女を差し置いて子どもを選ぶとはなんと酔狂な、と思ったかどうか。 目を白黒させて言葉に詰まる卯吉に、にっこりと十六夜が微笑う。 「でもね、これはまだ皆には内緒。おまえさんも弁えておいてくださいね」 当代随一の美貌の(元)太夫が本気の迫力で篭絡するのだからひとたまりもない。 卯吉は声もなくこくこくと頷くばかり。 こうしてまたひとりこちら側に引きずり込んだ若者に嫣然と微笑んで、十六夜は、固めの杯とばかり酒や肴を勧めるのだった。 半刻ほどの和やかな時間が過ぎて。 残った弁当の始末は健啖振りを発揮する卯吉に任せ、直江は高耶を散歩に連れ出した。 そして道々の出店を冷やかして見て回る。 射的や輪投げの景品や亀釣りで釣った小さなゼニガメ。色とりどりの飴細工や最近流行りのラムネの壜。 請われるままに立寄った店々の戦利品で、ほどなく、高耶の両手はいっぱいになった。 「楽しかった?」 かさばる荷物を引き受けながら、聞いてみれば 「うん!」 返るのは元気な返事と満面の笑顔。 年相応の子どもらしい表情に、自然と直江にも笑みが浮ぶ。 「それはよかった」 微笑みながら視線をあげた先に八重桜の若木が目に止まった。 同時に高耶も気づいたのだろう。とてとてと近づいてちょうど自分の背丈ほどの高さに咲いている花を眺める。 ぼってりと重たげな花をつけるこの種類の桜は、正直あまり好きではなかったのだが。 改めて間近に見れば、黄色い蕊を中心に幾重にもひらひら重なる花びらが光に透けて、たいそう可憐で美しかった。 数輪を摘み取って高耶の髪に挿してやる。思った通り、濃いピンクの花簪は高耶の黒髪によく映えた。 「とっても可愛い」 「…………」 真顔で褒めるのに、女の子じゃない高耶は少々困り顔でいたけれど。 「早く太夫たちの所に戻りましょうか。高耶さんが当てた張子の人形、見せてあげないとね」 「うん。このカメも。庭の池に放してもかまわないよね?」 再び手にした小さな命に気が向いて、愛しそうに胸に抱きながら足早に歩き出す。 見せびらかしたいのはカメや張子人形なんかじゃない。 八重桜の花を髪に挿し、桜の精のように愛らしい高耶自身。 本当にいい花見日和だったと微笑みながら、直江はゆっくり高耶の後を辿っていった。 |