数日後、直江の持ち帰ったのは、やはり同じ包装紙に包まれた細長い紙箱だった。 臆面もなく差し出されたそれを、眉間に縦皺寄せた高耶が無言のまま開封にかかる。 でてきた箱の中身はやっぱりワインの壜。ただしすりガラスごしに透けて見えるのは霞のかかった淡黄色。そして 白のラベルに描かれている絵はさくらんぼではなく、いささかいびつで無骨な、林檎によく似た黄色いフルーツ。 まじまじと見つめてから、高耶は傍らの男に視線を転じる。 「今度はラ・フランスかよ!?」 あきれ果てたような冷たい響きだった。 そんな反応は予想済みだったのだろう、さっそく直江は弁明を試みる。 「どちらにしようか、実は先日も迷ったんです。同じワイナリーの品で 甲乙つけがたいけれど、両方買ってしまったらあなたに怒られそうで。 でも販売は今日が最終日で、やはりどうしてもこちらも試してほしくて。……高耶さん、さくらんぼの方はすごく気に入ってくださったでしょ?」 「う…」 切々と訴えられて、切り札まで持ち出されて、今度は高耶が言葉に詰まった。 先日のさくらんぼワインは確かにとても美味しかった。 飲みやすさにつられて、ついつい度を過してしまったのは自分の責で直江に咎はない。 それでも、酔った自分が彼をも巻き込んだその後の経緯を思いおこせば、甦る羞恥で身の置き所がなくなる思いの高耶である。 (あん時は、恥かしいなんて全然思いもしなかったけど。でもそれが酔っ払ったってことだったんだろうな…) ただ直江にもあの甘いワインで、自分と同じようにふわふわとした気分になってほしくて。 強引に口移しで飲ませたものの、そのくちづけで身体に火がついて。考える間もなく強請る言葉が口を衝いた。 もちろん直江がそれに応えないはずはなく。 希み通りの羽毛のような愛撫に蕩けてあっけなく逐情して。さらに全身を覆い尽くされ感極まって泣き喚いて――。 気がつけば直江の腕の中、すでに朝になっていたのだ。 「………」 真っ赤になって俯いて黙りこくった高耶を、どこまでもいとおしげに直江は見つめる。 あのワインに、疚しい下心は本当になかった。 高耶が喜んでくれればそれでよかった。 結果的にはそれ以上の幸福を彼は自分に与えてくれて、 箍の外れたのは直江も同じ、心地よい陶酔だけを望んでいた高耶のことを、結局、失墜させるまで放せなかった。 ワインのもたらした酔いは、直江にとっては嬉しいアクシデントだったけれど、高耶はそう思ってはないことも承知している。 自分から快楽を求めることに、彼はまだ抵抗をもっているから―― その矜持と潔癖さが高耶の高耶たる所以。でも、 羹に懲りるみたいに、今後一切、同じ酒は口にしないと、そんな風にだけは思いつめてほしくなかった。 日を置かずに似たような品を買ってきたのには、そんな意味合いを秘めている。 そして、それを汲んでくれるかどうかは高耶の胸ひとつ。 「高耶さん…?」 暫くの沈黙の後、促すような優しい声に、高耶がきっと面をあげた。 「……わかった。飲んでやる。でもヘンな期待はすんなよなっ!」 言い捨てざま奪いとるようにワインを手にして、そのままキッチンへ消えてしまう。 撫でようとする手を拒んで毛を逆立てながら、餌だけを攫って身を翻す、猫のようなすばやさだった。 呆気にとられていた直江が、やがてくすくすと笑い出す。 (そう言われると、かえって期待したくなっちゃうんですけどねえ……) これが今の高耶が示せる精一杯の譲歩なのだと解かっているから。 墓穴を掘った感のあるその捨て台詞にはあえて目を瞑った直江だった。 注ぎ分けられたワインは、その色味がどこかシャンパンめいていて、どちらからともなくグラスの縁をチンと合わせた。 そしてふたり、神妙な面持ちで同時に口に含む。 「!」 想像以上の美味しさだった。 馥郁とした気品のある香り。スパイシーな舌ざわり。 とろけるような甘さとほどよい酸味を口腔に転がして飲み下せば、最後に広がるのはすべてを圧倒する蜂蜜のような濃密な風味。 幾重にもヴェールを重ねたような繊細で複雑な味わいに、高耶の表情が柔らかくほどけていく。 そんな彼を窺い見ることが自分の至福。彼と共有できる時間を満ち足りた思いで愉しむうちに、ふいに膝のあたりが重くなった。 いつのまにかソファから滑り落ちじかに床に座り込んでいた高耶がにじり寄ってきて、片膝に頭をもたせている。 そっぽを向きながら甘えるような仕種がまた猫めいていて、直江は微笑を禁じえない。 「どうしたの?……酔ってしまいましたか?」 撫でてくれといわんばかりの位置にある黒髪を梳きながら、訊いてみる。 「……うん。そうみたい」 弱々しく返る応えがあまりに素直で、逆に不安になった。 「高耶さん?大丈夫ですか。もう休みましょうか?」 屈みこんで、再び後ろ向きの彼に問い掛ける。 顔色を確かめようと肩に手を置くと、その反動を利用するかのように高耶がくるりとこちらを向いた。 すくい上げるようなその眼差しに息を飲んだ。 潤みかかった黒眸が逸らされることなく、自分を見つめてくる。宝玉そのものの輝きで。 「……なんでだろうな。このあいだほど飲んでないのに。やっぱりふわふわしてくらくらする。まるでワインじゃなくておまえに酔っているみたい……」 「高耶さん……」 とてつもない殺し文句をさらりと口にして、なおも高耶は言葉を継いだ。 「このワイン、すごく旨くてさ。なんかおまえとキスしてるみたいな気になって。意地張ってんのがばかばかしくなってきた。 ……やっぱりオレはおまえが好きで、一緒にいると安心できて、そして、こうして触れているとほんとにシアワセな気分になるんだなって。 ……その、いいよな?オレからおまえを欲しがっても。……呆れたりしないよな?」 眩暈がしそうだった。 咄嗟には言葉を返せず、代わりに恭しく口づけを落す。 胸のうちを全部を吐き出してしまってすこしだけ不安そうにしている彼の額と、その指先に。くすぐったそうに身を捩るその耳朶に。 「……なんでもあなたの望みどおりにしてあげる。教えて。今日は…どうしてほしいの?」 「んじゃ、キスして。……そして寝るまでずっと抱いていて」 おもちゃをねだる子どもの口調で、高耶が言った。 「はい……」 きっと彼の求めているのは性的高揚とは別の、綿菓子につつまれるような甘い幸福。 先日与えそこなった優しい眠りに今度こそ彼を誘えるように。 直江は静かに高耶を抱き上げ、リビングを後にした。 |