帰路についた車の中で、高耶はずっと黙りこくったままだった。 顔を窓の外に向け、頬杖をついて、ぼんやりと流れる景色を眺めている。先ほどの悪ふざけに腹を立てているのだと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。 時折、ガラスに映る高耶の表情は柔らかく和み、微笑さえ浮かんでいて、別れて来たばかりの美弥たちのことを考えているのだと容易に察しがついた。 だが、もう話しかけても大丈夫だろうと判断したその矢先、その表情が急に曇る。小さく息を吐き、ちらりとこちらを見て慌てて視線を逸らすのを、直江は見逃さなかった。 「どうしました?美弥さんのことを考えていたんでしょう?」 「……ん」 すかさず声をかけられて、高耶が気まずそうに俯いた。怒っていたことなどすっかり忘れてしまったようだ。しばらくそうしていた後、相変わらず眼は合わせないまま、ぼそぼそと話し始めた。 「美弥、いい顔してたよなと思って……。好きなやつ男と結婚して家庭を持って、子供が生まれて……あんまり普通で当たり前すぎて気が付かなかったけど、考えてみたら、 すごく幸せなことなんだってあの顔みたら思ったんだ……。オレはおまえと暮らせて楽しいけど、やっぱり子供産むわけにはいかないもんな。 今まで女に生まれたかったなんて思ったことなかったけど……」 後は言葉にならずに口ごもる。 見当違いの気遣いに、直江は頭を抱えたくなった。 同性である以上、立場は同じはずなのに、高耶は本当に自分でいいのかと言外に問い掛けてくる。想う以上に想われている事実が、いまだに判っていないらしい。 深くため息を吐いた直江だが、そのため息すら悪い意味にとられかねないことに気づいて、慎重に口を開いた。 「そうですね……仮に貴方が女性だったら、それこそすぐさま結婚を申し込みますが……」 いつもなら、気色悪いはなしをすんな!といった反応を返すところだが、自分で話を振った手前、複雑そうな顔をしながらも、高耶は素直に耳を傾けている。 「私たちの出会いを考えると、貴方に好意を持ってもらえたかどうかはちょっと疑問ですね」 そういわれて考え込んだ。 あの当時は怖いもの知らずで負けん気ばかりが強い十六歳だった。なにしろ信じられないような話を吹っかけてきた見ず知らずのこの男と、行動を共にしたのだから。 もしもそのときの自分が女の子だったら? スカートをはいた姿など想像したくもなかったので、代わりに紗織を当てはめてみる。 出てきた結論はひとつだった。 「ぜってー、交番に駆け込んでたな。変質者だと思って。おまえ、下手すると逮捕されてたかも」 ストーカーか、それともアブないやくざのお兄さんか……いずれにしても怪しすぎる。 衣着せぬ言い方に直江が苦笑をもらした。 自分でも強引だったと認めざるを得ないからなおさらだ。 「つれないですね。でも、私の気持ちは本物ですから、とにかく誤解を解いて、貴方を口説き落として、周囲を説得して婚約までこぎつけたでしょうね」 「婚約って……まだ高校生だぞ?」 「高校生だからですよ。いくらなんでも結婚までは親御さんも学校も認めないでしょうし。 とりあえず式は卒業まで待って、もちろん進学してくださって結構ですが、さらに四年もお預けなんて私は我慢できませんから、そのときは籍を入れて橘の人間になってもらって」 すらすらと話を作っていく直江を呆れた表情の高耶が見つめる。 「子供は……在学中は無理でしょうね。でもその間は二人っきりの蜜月です。毎日大学まで迎えに行きましょう。悪い虫が寄ってきたら大変ですから」 「迎えってこの車でか?」 思わず合いの手を入れてしまうと、にっこりと微笑みながら直江が応えた。 「ベンツでもテスタロッサでも貴方のお望みのままに」 絶句した。 直江ならやりかねないことを、高耶は経験で知っている。 あくまで仮定の話だとしても、もしも自分の性別が女だったとしたら、この男は今言った通りのことを実行したに違いないのだ。 唖然とした高耶だが、ふと、直江が眉をひそめて言った。 「……でも一番のライバルは、虫なんかじゃなくて母になるかもしれませんね」 「?」 「なにしろ貴方は放蕩息子を改心させた功労者になるわけですから……、母にとっては待ちに待った存在です。猫かわいがりに可愛がって、きっとあちこち連れまわしますよ。 お芝居やら、茶会やら。……ああ、その前に買い物かな?外出着を誂えるのに出入りの呉服屋を呼びつけて、 貴方を着せ替え人形にしてとっかえひっかえ反物を当ててみるぐらいはやりそうですね」 「………………冗談だろう?」 やっとの思いで口にしたのだが、直江は処置なしとでも言うように首を振ってみせた。 「賭けてもいいですよ。……それに、高耶さんはうちの母みたいなタイプは苦手でしょう?断りきれずに結局付き合ってくださりそうじゃないですか」 「……」 そうなのだ。押し付けがましい大人にはいくらでも不遜になれるのだが、実のところ、高耶は年配の女性に弱い。それも、心からの好意で接してくる相手は特にだ。不本意だが、確かに直江の言うとおりになりそうだった。 黙り込んでしまった高耶にさらに直江が畳み掛けた。 「子供でも出来たら……。もうマンションに入り浸るか、実家の近くに新居を用意して引越しを迫るか……。いや、それどころか父を焚きつけて、寺の仕事を全部兄夫婦に譲って気楽な隠居の身分になって私たちと同居しようと言い出すかもしれない」 眩暈がした。 もう何を言う気も失せて、ぐったりとシートにもたれた高耶の手に、不意打ちのように直江の左手が伸びてくる。 「……だからね、貴方が貴方でいてくれて、本当に良かったと思っているんです」 包み込むように重ねられたその手を高耶は振り払わなかった。 握り締める力強さが、言葉以上に雄弁に想いを伝えてくる。その熱さが体の奥まで沁みこんでいきそうで、身を硬くしたまま、こらえるように眼を閉じた。 そんな高耶の様子を横目で窺いながら、直江はさりげなく車を路肩に寄せて停止させる。 はっと眼を見開いたときには、すでにシートベルトを外した直江が覆い被さっていた。逃げ場のない状況で、しかも、衆人環視の公道でキスをされて、高耶の顔にたちまち血が上った。 殴りかかろうとこぶしを振り上げるが、すばやく身を起こした直江はすました顔でアクセルを踏み込み、車線に乗ろうと操作している。そして、ぬけぬけと言い放った。 「こんなところで騒ぐのは事故の原因ですよ。高耶さん」 「お・おまえはぁぁぁぁぁ!」 豪快なウィンダムのエンジン音と共に、再び、高耶の絶叫が響き渡った。 |