やがていまひとたびの夏が




 夢の中で彼を責める
 どうしてオレを置いていった
 独りにしないと誓ったのに

 責めてなじって――
 手をのばす
 その指が届く前に――
 いつも目が覚めて

 そうして仰木高耶の生を生きる自分に戻って
 ――自分を責める

 オレのせいだ
 誓いも思いも断ち切らせた
 オレが死なせた

 なぜ生きているんだろう
 偽りの「仰木高耶」
 彼がいない
 彼がいないのに
 なぜ生きているんだろう

 なぜ

 なぜ?

 もしかしたら
 もしかしたら指先が――
 もう一度

 もう一度彼に届くなら


「……やさん」
(もう一度)
「……高耶さん?」
(指が届くなら)
「たか……わぅっ!?」
 飛び起きた高耶は、間近の義明の驚き顔に目を見張る。
「いて……」
 途端に鮮明になった痛みの源は、左肘。義明の左手の指が、ぐっと食い込んでいる。
「てってって!! なにすんだ、おい!?」
「それはこっちのっ!!」
 義明がむうっとして、目線を上に、と促す。高耶の左手が彼の右手を、力の限りに握りしめていた。
「はっなしてくださいよ!! なんなんですか、もう!」
 振り払おうとしたのに、高耶の手がまだ力を抜かないので、義明の目つきが険悪になり、彼の左肘に食いついている指先がわずかにずれた。
「うひはっ!?」
 高耶は情けない悲鳴とともに、左手を開いて身もだえした。
「なっ、なにしたっ!」
 義明が半眼になって、自分の方へ引き戻した右手の指を、ぎり、と構えてみせた。
「一番弱いところからは、ずらしておいてあげたんですよ。なのに離してくれないんですから」
 ふふん、と少年が笑った。
「マッサージは祖母仕込みです。指が急所も覚えてますよ」
「電気走ったのかと思ったぞ、おい!!」
「目が覚めたでしょう」
 涙目の高耶を尻目に、義明はやれやれと立ち上がる。
 照明具のはずされた古ぼけた天井。
 朽ちた色の建具に、染みの浮いたふすま。
 やけた畳に落ちる鈍い午後の陽射し。
「早いとこ始めましょう。綾子さんたちが買い物から帰ってくる前に、雑巾がけ済ましておきましょうよ」
 広縁に出た少年が、陽光を背にまた笑った。

 門脇綾子が松本で見つけた家は、市街地から少し離れた、築四十年は経つ古い平屋だった。
 城北高校に近い千秋のアパートは、複数の人間が出入りするには狭すぎるし、人目にもつく。きちんと理由はあるのだが、彼女が「夜叉衆・松本『新』支部」として、この家を借りたのは、
「あんなとこじゃ、あたし寝られないもん!」
 なのだそうだ。
 公道に面した前庭の半分は、砂利敷きの駐車スペースになっていて、普通車なら三台ほど停められる。そこからほとんど立ち木のないあっけらかんとした庭、そして敷地の北辺に沿うようにこじんまりとした家。
 水廻りと、ダイニングルームに改装された元・茶の間。二間続きの和室。南側に広縁。彼女のこだわった通風と採光の良さは充分で、梅雨の合間の晴れのこの日は湿度もほどほどで掃除日和と言えた。
 綾子と義明が妙に細かく熱心に必要品の購入メモを作っているのを和室から見ているうちに、うたたねしてしまったようだ、と高耶は欠伸を噛み殺して広縁に立った。
 義明はブリキのバケツに手を入れて、古布をしぼっていた。
「そんなのどこから」
「押入れのすみに残ってたんです」
 夏の制服――白い半袖のワイシャツ、夏生地のズボン――になったばかりの姿で、力強く雑巾をしぼる少年の背をしばし見つめていた高耶は、小さく肩をすくめてバケツに近づいた。黒いカットソーの長袖を捲り上げ、頃合いの大きさの古布を選ぶ。
 彼がバケツに布を沈めようとした時、天から駆動音が降ってきた。二人が見上げた空を、頭上から彼方南へと進んでいく一条の白い線。晴れた青の中に現れる飛行機雲の軌跡を追って、高耶の左腕が空へと伸ばされる。
「ああ……、見ろよ、太陽に―――」
 義明は続く高耶の言葉を捉えそこねた。
 差し上げられた高耶の左腕。その内側に。
 少年の気配に気づいて、高耶は彼に目を戻した。義明が自分の腕を見つめている。高耶は、彼からは見えない唇の左端を引きしめた。
 わざと。
 ん?と穏やかな目で促した。
 義明は気まずそうに一瞬目をそらしたが、好奇心の方が勝ったらしい。
「それは……」
「ん? ああ」
 高耶は左腕を彼の目の高さに持っていく。
 手首を上にして。左腕の内側、思いのほか柔らかい肌の色の上に、手首の右から肘の左側まで、がたがたとした斜めの赤黒い線が走っている。
「山でちょっとな」
「山!?」
 義明が目を丸くする。
「登山するんですか?」
 高耶は、はは、と笑った。
「ハイキングコース三時間、ってやつ」
 まばたきする義明に肩をすくめてみせる。
「小四、かな。夏だった。一番上の兄貴と遠足クラスの山に行って、山頂まであと少し、ってあたりの斜面を――」
 左手の親指を下へ向ける。
「落ちた」
 義明が息を止めた。
 高耶はゆっくりと右手で傷跡をなぞった。
「折れた木にひっかかって、こう、なって頭を打った」
「足を滑らせたんですか?」
 高耶は傷を見つめて黙っていた。
 その何もかもが抜け落ちたような「空白」の表情を、義明もまた黙って見つめた。
「世界があんまりきれいだったから」
 ようやくこぼれた静かで優しい声に、義明は、は?と目を見張った。
 そのとび色の虹彩に目を移して、高耶の瞳は言う。
(本当だよ)


 登ってきた山
 見おろす緑に弾ける光
 夏の生命の輝きで世界は生気に満ちていた
 ――世界がとても美しくて
   なのにおまえがいなかったから
   このままずっと
   この美しさをおまえと分かち合うことができないのなら
   生きていくことには
   本当にもう何の意味もないんだと思った

   もう会えない
   もう取り戻せない
   それなら
   もう「オレ」も終りたい

 身体が傾いた


 高耶は目をそらし、バケツのそばにかがんだ。
「兄貴が言うには、叫び声に振り向いたら、オレの後ろにいた人がオレのリュックをつかんで助けようとしてた。でも、ずっ、と身体が抜けて、すぐ下の灌木に引っかかったんだってさ」
「……覚えてないんですか?」
 高耶はまた肩をすくめた。
「気絶したまま、三時間かけて登った山をケーブルカーで十分で下ろされて、病院に担ぎ込まれて。起きたのは夜だった」


 夢を見ていた
 ずっと泣いていた
 帰ってきてくれ
 もうひとりではいられない

 背中が暖かくなった
 そっと包んでくれるあのぬくもり
 暖かい……

 嬉しかった
 嬉しくて泣いて
 目が覚めた

 背中が暖かかった
 諦めるなと自分に言った

 会えるから
 きっと帰ってくる
 オレはおまえを見つけられる

 病院のベッドで
 自分の身体を抱きしめて
 「きっと会える」と


 高耶は顔を上げた。
 まっすぐにこちらを見ている瞳。
 真摯で誠実な彼の瞳。
「オレは見間違ったりしない」
 見上げた目の強さで少年の動きを封じ、その場に留めつける。
「こうしてちゃんと見つけた」
 立ち上がった高耶の方が瞳の位置は高い。魅入られたように目を合わせて――けれど義明の目は決して負けていない。屈服したのではなく、惹きつけられたから目をそらさないのだ。
「直江」
 こぼれた名に反発はない。
 高耶は静かに手を上げた。指先が少年の頬に触れる寸前、荒っぽいブレーキの音が空気を引き裂いた。
「うひゃああっ!!」
 悲鳴のような声をあげて、千秋が玄関先に急停車したレパードの助手席から飛び出してきた。
「ああ、やだやだ、俺この先何があっても、こいつの運転する車にゃ乗んねぇ!!!」
「なによ、そのひよったセリフ!!」
 怒声とともに綾子が運転席から降り立つ。
「ちょいと長秀!! 荷物運びなさいよ!! あっと景虎―!! 橘君もほらー!」
「はい!」
 勢いよく答えて、義明は前庭に飛びおりた。

 ゆるやかにつながったと思った糸は、外界の音に消えた。

 高耶は微かに唇をゆがめた。

 あせるな、と自らにつぶやく。
 そう、もう見つけたのだから。
 あの夏から十八年。
 高耶はそっと左腕の傷をなぞる。
 今年の夏は、もう――ひとりじゃない。

「おまえがいる」
 笑みが浮かぶ。
 彼は晴れやかに空を仰ぎ、大きく息を吸った。

 オレは世界に感謝する。


                        了('08・6・9)








高耶さんなら、手首云々の静かなものではなく、
二時間ドラマ御用達の断崖絶壁型だろうな、と。
 





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