1. 「あのさ」 照明器具の高さの調節をしていた千秋が言う。 「いいんか?」 「何が?」 彼の足元で、空いた箱やビニール袋を分別していた高耶が顔も上げずに聞き返す。 「少年は、だいぶお姉さんに懐いているようだが」 「ああ、部下並みに使われているな」 高耶は、台所で綾子と片付けをしている義明の方へ目をやった。 この家は綾子が契約するまで長く空いていたらしく、なかなか掃除のしがいがある。 制服が汚れる、と綾子に一喝されて、ピンクの袖付きエプロン――早い話がおしゃれ割烹着というやつを着せられて、 あれこれ彼女の指示のもと働いている少年の顔は素直で真剣だ。 「いいわけ?」 「だから何が」 高耶は眉を寄せて、千秋を見上げた。真顔の相手に、何なんだよ、と険しい目で問う。 「きれいなお姉さんに憧れる少年、の図式は珍しくないぞ」 「はァ!?」 思わず飛び出した高耶の呆れ声に、千秋はしっしっと人差し指を立てる。 「すんなりとした小柄な色白美人、に見えるじゃん。中身、晴家でも」 高耶は、んーーーと顎に手を当てたが、どうにか彼女の「見た目」だけ、を考えることができたらしい。 「ああ、まぁな」 「恋バナ、咲いたり」 また大声が出そうになって、高耶は喉を詰まらせた。 「な……はンだって?」 千秋がしゃがみこむ。 「25才の綺麗なお姉さんに17才の男のコが。ありそーじゃん」 「中身、晴家だろ!?」 「俺らにはな」 千秋は、こりこりとこめかみを掻いた。 「でもあいつは橘義明だからな。城北高校の二年生、17才」 高耶はきつい目を向けた。 「直江だ」 「義明だよ」 千秋の目の中に、皮肉な色がちらつく。 「勉強好きの、教師が夢見る生徒の鑑。見目良く誠実な17才男子高校生だ」 今日もきらびやかな色合いのアロハシャツの襟をぱたぱたやりつつ、彼はうふっと思い出し笑いをする。 「あいつとすれ違う時に、つまさき立ちになる女子を20人は知ってるぞ」 険しい目ながら、高耶は、はて?という顔になった。 「つまさき立ち?」 千秋は優しい目になって、歌うように答えた。 「背筋もふくらはぎも、すっと伸びてな。立ち姿がキレイに見えるんだ。長くはやってられないが、女の子はその数秒に思いをこめる」 高耶は苦い表情になった。 「べちゃべちゃしたカンチガイ小娘は嫌いだけど、きちんとした子には分け隔てなく礼儀正しいから、高得点なんだよ。真剣に思いを寄せてる子は多いぞ〜」 必要以上の力でゴミ袋の口を結んだ高耶は、千秋を睨んだ。 「何が言いたい」 「いやまあ」 千秋はにっこりと笑った。 「このままだったら、それはそれでいい人生なんじゃないかなーっと」 左の親指が台所を示す。 「橘義明にはね」 「あっと」 セットした電子レンジの示した時間に、義明は目を見張った。 「すみません、そろそろ」 「えっ、ああ」 綾子は明りを点けて、掛け時計を確かめた。 「六時まで、って言ってたっけ。ありゃ、でもお茶ぐらい……」 「いえ、もう今日は」 エプロンの紐の背中の結び目をほどこうとする少年の後ろに回りこんで手伝いながら、綾子はくすっと笑った。 「縦結び」 「えっ、あっ」 義明が赤くなる。 「時々……やっちゃって」 ピンクの袖を抜く彼を、綾子は楽しそうに見つめている。 「これ、専用にしようね」 頭から脱ごうとしていた義明に、うふ、と笑う。 「似合うよぉ、ピンクv」 「うわ、やめて下さいよ」 あわあわと脱いで、それでもきちんとエプロンをたたむ少年の肩先で、低い声がした。 「行くぞ」 ちゃり、と車の鍵の音とともに、足音荒く玄関に向かった高耶に、え、と義明は戸惑った。 「いえ、そんなに遠くないですから」 「いいから」 久しぶりのとがった声に、義明は、ん、と息を詰めたが、それでも黙って自分のバッグを取り上げた。 綾子は軽く口をすぼめて、この状況を見ていたが、靴を履き、ぺこんと頭を下げた少年にぴかぴかの笑顔で応えた。 「次ん時、今日の分もおごったげるからねぇ〜!」 荒っぽい発進音。そんなスピードじゃ、すぐあの子の家に着いちゃうぞ、っと。 遠ざかる響きに呆れ顔になった綾子は、冷蔵庫から取り出したビールの缶の温度を手で測っている千秋に目を向けた。 「何したの、あんたは」 「やー」 みんな同じぐらいぬる〜い、とブツブツ言いつつ、彼は一本選んでぷしゅ、とプルタブを押し開けた。 「ちょっと先セの役にのめりこんでる自分がいましてな」 2. 何も松本でなくたっていい。 宇都宮にだって高校は幾つもあるんだ。 こいつの学力なら、どこでも平気だろうし、普通高校の授業内容なんて全国どこだって同じだろうし。 本当にこのまま。 連れていってしまえば。 「……やさん、あの」 ふっと、たぎるような内側から、高耶は外界に引き戻された。 「あの……ああっと! もう二つ角を通りすぎちゃったんですけど」 「あ、すまん」 少年は責めるというより、心配そうな表情でこちらを見ている。その目に少し平常心が戻って、高耶はハンドルを握り直した。 「悪い、この先で戻るから」 「いえ……あ、じゃあ」 義明は右手で一つ先の信号を示した。 「あそこのコンビニに寄ってもらっていいですか? うちに帰ってから出直すつもりだったんですけど」 「ああ、オレも何か飲み物でも買うかな」 仕事帰りらしい軽トラックの隣に濃緑色の車をすべりこませて、二人は夕刻のコンビニへ入った。 雑誌のコーナーに、外にあった自転車の主であろう中学生が数人群れていたが、 そんなに混んではいなかった。 手にしたカゴに、義明はポテトチップスやカップ麺をどしどしと入れていく。 普段そうした物を好む風のない彼とのギャップに、高耶は首をかしげた。パンの売り場では、甘そうなおやつ系のそれがさかさかとカゴ入りし、 その並びで彼は嬉しそうに老舗の名の入った月餅を手に取った。 問いかけが目に浮かんだのだろう。義明は柔らかい笑顔で高耶に答えた。 「祖母が好きだったんです」 カゴに入れながらつぶやく。 「綾子さんと話してると思い出します」 「へえ……え!?」 腕を組みかけていた高耶は、動きを止めた。少年はにっこり笑って、肩をすくめた。 「てきぱきしてて手順がいいから、つい従っちゃいますよね」 目を細めたのは。 「……ちょっと懐かしい気持ちになります」 優しい思い出に、か? 「……あ、そ」 高耶は頭を掻いて溜息をついた。 あせるなって。 再び、自分に言い聞かせる。 こっちを向け、と。 こっちだけを見ろ、と言いたくても。 抑えろ。 もう失敗はしないと誓っただろう。 ペットボトルのならこっちですね、と振り返って笑った義明の顔に、高耶は小さく微笑み返した。 こんな風に少しずつ近くなっているんだから、と一歩踏み出す。 「わぁお!!」 店内に響き渡った雄叫びに、高耶の物思いは破られた。 突然、目の前が真っ暗――ではなく、巨大な壁が鼻先に出現して、彼と義明を隔てた。 「わーーお、にーいちゃーん!!」 天上から響く大声、正しくは天井に近い位置で発され、跳ね返ってきたでかい声。 「ああ、お帰り」 白い布の壁の向こうで、落着いた義明の声がした。 「重いよ、ヒロ」 「なんだ、この、でかい……」 ぬりかべ、と言いかけて、高耶は目線を上げる。義明のと同じ色合い、同じ質感の髪を持つ頭が、ぐりぐりと熱狂的に何かになついている。 「痛いって」 そのあたりから、また義明の声がした。 「やーー、だーってさーーーあーーー」 「ぬりかべ」がほどけて。太ってこそいないが、広い肩幅、厚い胸の、だが天井近くにある顔は、少年としか言えない姿。 上気してピンク色の頬。くるりとした丸い瞳、大きく笑った口元。 義明と同じような夏の制服姿の彼は、大変可愛らしい顔立ちの――巨漢だった。 「カゴん中、俺の好きなんばっかしじゃん、やっぱ兄ちゃんってわかってんなぁ!!」 でかい。でかいが――少年。 しかもすっごく可愛い顔。 義明に似た。 なに、コレ!!? 高耶は心の中で叫んだ。 「きゃーきゃー喜ばない。お前、声が大きいんだから」 まだ肩に抱きついている少年――でかいが――の逞しい上腕をぽんぽんと叩いて、義明が高耶に顔を向けた。 「弟の弘明です。中二です」 少年――ほんとにでかいが――が、うっそり、と高耶を見下ろす。 (熊だ) 高耶は自分を見る相手の目に身構える。一見可愛いようだが、油断すると。 「ヒロ、譲のことで御世話になった――仰木さん、だよ」 んー、と兄にうなずいた中学生は、ちょいと高耶に頭を下げたが、実に「形だけ」だった。 ほぼ挑戦状のような弘明の態度と、久しぶりに距離を置いた義明の「仰木さん」に、高耶の機嫌は一気に斜めになった。 「柔道で関東に遠征してたんで……」 義明は、まだくっついているでかいのをそのままに、カゴに目を落とし、入れすぎたな、とつぶやいた。 「ヒロ、ジャンク解禁は今日だけだぞ」 ひょいひょいと菓子パンを棚に戻す兄に、「熊」が、え〜〜、戻しちゃうのぅ〜〜、と甘ったれた声で抗議する。 心の中で素早くカウント10。 大きく息を吸って、高耶は何とか平静な声を出した。 「おごってやるからレジへ行け」 え?と首をかしげた義明は何か言いたそうだったが、感じ取るものがあったのだろう。静かに礼を言った。 荷物を持たされてもなお、ごろごろと兄に懐きまわる弟の気配にピリピリしながら、先に立った高耶はドアを出る。 丁度やってきた客が、足を止めて、あ、と小さい声をたてた。 「あ」 続いて出てきた義明も、同じような声をもらした。彼らに道を譲るように、一歩左によけた相手は、Tシャツにデニムのサブリナパンツの長身の少女だった。 長い髪をバレッタで止め上げ、すっきりとした首筋を見せている彼女は華やかではないが、整った顔立ちをしている。 「義明くん」 その名を口にした時、彼女は明らかに頬を赤くした。 「あ〜、ちずちゃんだ」 弘明の能天気に近いほど明るい声が、場を動かした。 「こんばんは、ヒロちゃんも」 少女は穏やかに微笑んだ。 「なに、買い物?」 「うん、おじいちゃんがカルピス切らしちゃって」 義明と少女のやり取りに、弘明がガハハと笑う。 「じーちゃん、相変わらず甘いもん漬けかぁ」 「そうよ。朝から羊羹、だけはやめてほしいんだけど」 じゃあね、と店に入った彼女の足元はつま先立ちではなく。 ああ、そうか、と高耶はつぶやいた。長身の少女は店内では、やや猫背気味に見える。 より長身には見せたくないが、すっと上背を伸ばしてはいたのだ。 彼と相対する時は。 「前カゴに入れるよ」 「入るのか?」 店内から目を移した高耶は、止めてあった自転車に荷物を載せている橘兄弟に顔をしかめた。 「すみません。弟はコレなので、ここで」 義明が頭を下げるその横で、自転車を引きはじめた弘明の顔は。 今度はカウント20。 高耶は先ほどより大きく息を吸い、穏やかな大人の男、の顔を維持した。 「ああ、またな」 義明の目に、本人も気づいていないだろう安堵が浮かんだ。 「ええ」 その微笑になだめられた気持ちを損ないたくないので、高耶は弟熊を見ないようにして車に乗った。 「また」と言って「ええ」と答えて。 今はそれでいい、今は。 ああ、だけど。 小さな古家までの道を戻りながら、高耶はハンドルに突っ伏したくなった。 「キネマ見ましょか、お茶飲みましょか」 ふっと口をついて出てきた。 「いっそ小田急で逃げましょか」 関東者しか知らねーよ、こんなの、と独りごち、17才の高校生に至っては、都々逸自体が未知のもんだよなぁ、と溜息をつく。 ああ、ほんとに。 いっそさらってしまえたら。 おまえの目、おまえの心を惹くものすべてから。 了('09.10.1) |