「仰木さん」 振り向いた仰木高耶は、はっきり嫌そうな顔をして、城山公園からの一大展望に目を奪われているふりをした。 その露骨さが子供っぽい、と義明は唇のはしで笑った。 「譲のことですけど、仰木さん」 もう一度、わざと力をいれて呼ぶ。青年はきっぱり背を向けた。 「仰木さんて、いい名字だと思いますが」 「不満はねえよ」 ふん、と鼻で笑う気配。 「じゃあ…」 「おまえの言い方が気に入らないだけ」 義明はついに笑ってしまった。駄々っ子だ。まるで。 けれど素直にこぼれた笑みが硬くなる。彼は――彼の言う原名、景虎と呼ばせたいのだろうか。 橘義明が直江信綱という見知らぬ誰かなのだと彼は言う。しかし。 (そんなこと…信じられるか!) 義明は青年の背中をにらみつけたが、声だけは穏やかに、 「じゃあ…高耶さん、とでも呼べと言うんですか?」 仰木高耶は目を丸くして振り向き、それから少年の薄笑いににやりと応じた。 「それいいな、あ、そのほうがマシだ」 義明がぎょっと顎をひくのを、楽しそうに見つめる。 「そう呼べ。でないと返事しねえぞ」 「ちょっと…おう…」 「『高耶さん』だ」 口を開きかけ、ぐっとつまる端正な少年の心中での苦闘に、高耶は我知らず微笑んだ。 賢いし冷静だ。事態を見定める分析力も――みんな彼だ。直江だ。直江がここにいる。 けれど抑えきれずこぼれる少年の感情。 直江の心をむきだしのままあじわっているような―― これは恍惚と呼んでもいいのではないだろうか。 「た…たか…」 自分の名を不服そうに紡ぎだそうとする唇に――目が吸いよせられるような気が…する。 昏い目で、高耶は先を強要する。 「や、さん」 「おーし」 高耶は視線を足元へ流して、肩をすくめた。 「で、なんだ」 義明は頬をやや紅潮させながらも、負けない目で対する。 「譲はもう大丈夫なんですか?」 “親友”の名はさらりと口にする…。高耶は足元の草の花に目をあてたまま、少し眉を寄せた。 「どうかな。憑かれやすいってのが、よくなるってことはないからな。自衛するしかないんだ、本来は」 「自衛、ですか」 不満そうな口調に高耶は目を誘われて、四百年もの間、自分の傍らにいたはずの存在を見やった。 「ずっと誰かが護ってるわけにも、いかねぇだろ」 その“いかねぇこと”を遣るために、ここに来たんだが…と高耶は心の中でつぶやく。 苦い笑みが口元を歪める。 「何だよ、おまえがガードするってのか?信じるかそんなの、って言ってたくせに」 義明が不意にまっすぐ自分を見つめたので、高耶は真顔で受けとめた。 「譲のためならってことです」 高耶は――防ぎきれなかった。思わぬ痛手は瞳に全て表れた。 義明は、鋭い黒曜の瞳いっぱいに広がった苦しげな光に目を奪われ――それが自分の心にも跳ね返るのを感じてとまどった。 (…どうして…?) 時折――ひどく悲しそうな目で…見る。 (なぜだよ?) (畜生…) 心が痛む。悲鳴をあげている。 高耶は乱暴に車を路肩に寄せて駐めた。 ハンドルに額を押しあてる。 (どうかしている。オレはどうかしてる) こんなことで傷ついたって? そんなはずはない。オレはそんなに弱くない。 (あんな坊やの他意のない一言で…。ああ…) 長い息をついて高耶は面をあげる。 (他意がないから、か…) あの少年にとって、自分――仰木高耶は見知らぬ者なのだ。重なっている上杉三郎景虎を彼は知らない。 でも――。 (ちがうだろう…。ちがうだろう、直江!) 高耶はゆっくりとシートに背をあずける。 (扉を…持っているだろう、おまえは!) 封じられている。でも扉はあるのだ。消えてしまってはいないのだ。 ぶるっと身体を震わせて高耶は宙を見つめた。 鋭い光を宿した目にじわじわと意志が満ちてくる。額へと右手が上がり、その場所で固く握られる。 「…取り返す」 口にすると、その言葉自体が力を帯びたような気がした。 「取り返す、おまえを」 嗤えよ、と言いながら自らを嘲笑する。もう思い知った。どれだけおまえが必要か。側にいない、それがどれほど苦しいか。 だから――手離すことなどできない。おまえを忘れるなんてオレにはできない。 「…自由になんて…してやるものか…」 ――おまえはオレの臣下だ。戻ってくるのは当たり前なんだよ。 倣岸に言い放ったくせに。 義明は、つ、と立って窓を開いた。西へ向いた図書室の空は赤い。 何故あんなに辛そうな目をするんだろう。そして――何故自分はそのたびに胸のどこかがつぶれたような気分になるのか…。 「関係ない」 口に出して言ってみる。だいたい主君だ、臣下だと、 時代劇でも珍しくなったような単語を突然現れた得体の知れない奴にぶつけられて、 はいはいと納得するような人間がいるもんか。 (俺の主は俺だよ) 早く成年と呼ばれる年になりたい。自活できるようになりたい。そうしたら弘明と二人で、あの家を出る。父親と生活を分ける。 当面の目標はそれだ。他のことはどうでもいい。 …もちろん譲のことは別だが…。ただ一人親友という言葉を使いたい存在――“ただ一人”…。 ふっと、記憶がその映像を出してくる。 ――炎を背景に振り乱された黒い髪―― 傷ついた目だった。…ひどく傷ついた時――自分にだけ、彼は…。 (…え…っ!!) 大きく高耶の顔がぶれたように思えた。瞳の…瞳を持つ顔が、身体が、立っている場所が―― 幾重にもぶれて重なって…。 義明は口元を押えた。 (…な…に…?) いくつもの人の顔の中で。あの瞳だけは、変わらなかった。 窓枠を掴む手がこわばった。 |