1. ふわっと浮かび上がるように、目が覚めた。 ここは?と眉を寄せて、視線をさまよわせると、古ぼけたふすまを背に学生服がかかっているのが目に入る。 あっ、と身を起こすと、周囲がぐるりと回って、また枕に頭が落ちる。 義明は、上着を脱がされ、部屋の中央に敷かれた布団の上に寝かされていたのだった。 ここは、松本の郊外にある、綾子が借りた古い家だった。 「あんなとこじゃ、あたし、寝られないもん!」 と、千秋のアパートをぼろくそに言ったから、どんなすごいマンションを見つけてくるかと思ったのに――。 彼女の探してきたこの家は、築四十年は経つだろう、古い平屋の日本家屋だった。 不思議に心落ち着く家だったが――。 義明は、右手で額を押さえた。 覚えていないと言えればいいのに。 わかっている、覚えている。 自分はまた、しくじったのだ。 調伏自体は成功した。 けれど、そこまでだった。 血管が、それぞれ勝手な方向へ躍りだしてゆく。そんな感覚と、肉が内側から引きちぎられていくような痛みとで、息が継げなくなった。 身体の一番深いところから、ゆっくり、ぶつぶつっと裂かれていく…。 喉が震え、声は潰れて、もう立っていられなかった。 誰かの手が支えて、耳元で叫んでいたけれど、自分は内側の声しか、もう聞くことができなくて。 (……オレガ支エナクテハ、イケナイノニ……) ――俺、は「直江」じゃない…。 幾度となく彼に叩きつけた言葉が、細く頼りなく、けれど、なによりも痛む刃となって、今、自分の胸に突き刺さる。 ――直江だったなら、こんなことにならない。 直江だったら、立っていられたはずだ。 彼の傍らに立ち、彼を支えられるはずなんだ。 自分が支えられ、護られる――そんなのは「直江」じゃない。 自分は「直江」じゃない。 彼が捜し続けた片腕じゃない。 義明は、詰まる胸を抱きしめるように、身体を丸めた。 噛みしめた唇は、血の味がしたが、突き上げてくる絶望を喉に押しとどめるためには、もっと歯を食いしばるしかなかった。 2. 「もう限界だな」 千秋が静かに言った。 「これ以上は無理だ。…魂が砕ける」 古い家の台所に続く本来なら茶の間にあたる部屋は、前の持ち主が改装してダイニングルームになっている。 綾子が選びに選んだという六人用の食卓セットは、とにかく大きい。 みんな無駄にでかいんだから、と楽しそうに笑っていた彼女も、今は静かに、千秋の向かいに座り、腕を組んでいる。 「金つぎで修復した茶碗…だったよな、晴家」 苦い笑みで、水を向けてきた千秋に、綾子は小さくうなずき、広縁に立って外を見ている高耶に目を向けた。 「必要だから、かけられている箍だけど――重すぎるの。 例え、全部の『直江』の記憶を取り戻したとしても、一度砕けかけた魂なのよ? つなぎ合わせた部分にかかる負担は大きいわ」 彼女は目を落とし、テーブルの上で指を組み合わせた。 「…あの子のせいじゃないのよ、景虎」 低く笑う声に、テーブルの二人は、はっと顔を上げる。 高耶が肩を小刻みに揺らして、振り向いた。 「仕方ないだろ?」 笑んだまま、ゆったりと腕を組む。 「おしまいだ。 そう三十年前に、わかっていたことだった」 西陽が、彼の右頬を橙色に染める。笑う瞳をも。 「直江信綱は死んだんだ」 3. …また眠ってしまっていたのか、と義明は目に映る夕闇の気配に息をつきかけ――はっと上体を起こした。 振り向き、見上げた目の先に、夕焼けの最後の輝きを背にした高耶が立っていた。 「起きてたのか」 静かな声だった。 「残念。 タイミングを逸した」 表情が見えないので、よけいいぶかしげな顔になった義明に、彼は言葉を継いだ。 「起きたばかり、が一番いいんだ、本当は。 記憶を消すには」 言葉が耳元ですべる。頭に入っていかない。 「終わりだ。橘義明」 なぜ…と唇は動いたのだろう。 見えないはずの彼の表情がわかった。 笑っている。 「使えねぇから、置いてく。 それだけだ」 それだけ…それだけ、じゃない。 義明は、彼の瞳があるはずの場所をただ見つめている。 (俺が…「直江」じゃないから…) だから彼は――。 ぎっと、少年は唇を噛み、立ち上がった。 「<力>がなくても」 ざらざらする喉に唾液を送り、声をたわめた。 「まだ身体がある」 「なっ!」 高耶が驚愕に、上体を引いた。 義明は、一歩彼に近づいたが、足元に裏切られかけて、柱に手をついた。 「肉体を騎馬のように使うなら、そのためだけにでも俺を連れていけばいい。 あなたが換生者として、肉体も魂も賭けるなら、俺の力が使い物にならなくても、肉体は役に立つはずだ。 次の器として持っていけばいいんだ!」 肉が肉に当たる重い平手打ちの音が響いた。 青年の容赦ないひと打ちで、少年の顔は右へ吹っ飛んだが、彼は柱に寄りかかって耐えた。 義明は、再び高耶をまっすぐ見すえた。 夕陽のきらめきが、琥珀色の炎になって、その瞳の中で燃える。 「あなたの戦場に、俺がいないなんて絶対にいやだ」 もう一度殴られる、と思って、義明は目を閉じた。 だが彼に襲いかかってきたのは、荒々しい抱擁だった。 強く抱きしめられて、驚いて目を開いた彼を柱に打ちすえるように――唇がふさがれた。 息の全てを吸いとるように、深く唇を合わせて。 頭を身体をめりこませるほどに、強く柱に押さえつけて、唾液が唇のはしから零れるにまかせて。 逃れても逃れても追ってきて、従わせようとして。 狂暴で熱くて理不尽――。 なのに。 間近にある高耶の瞳は、悲しくて――とても哀しくて。 瞳の奥に暗い炎。 それが自分の身の内を灼こうとする炎だと気づいた時には、すでに遅かった。 4. 半年、いや八ヶ月…?か。 夏と秋を一緒に過ごした。 オレのことだけを削るのは難しいから、 少し、数式や年号もこぼれ落ちるかもな。 …まあ、おまえなら、すぐ取り戻せる。 十七才の数ヶ月に少しキズが入って、思い出せないことがあったって…大したことじゃない。 うつろになった瞳を愛おしげに見つめて、そっと髪をなでた。 柔らかいな…。 「さよなら、直江」 今度はそっと抱きしめた。 「さよなら…」 微笑むことができる自分がいる。 犬死にはしねぇよ。 今、やっと戦うことの意味を見つけた。 オレの一番大切な「たったひとつ」。 それのために。 おまえが、この先の時間をおまえらしく生きていくこと。 その魂の力が尽きるまで、 おまえが―― そうありたかったはずの、幾つもの人生を叶えて、 未来へ輝く軌跡を刻むこと。 どんなにたくさんの光跡の中からでも、 オレはそれを見つけることができるだろう。 もう形がなくなって、 オレがオレでなくなってしまっていても、 その慕わしい琥珀色だけは、きっとわかる。 額にくちづけると、少年の身体がくず折れた。 赤い左頬に、そっと手をあてる。 そしてひとこと。 「――――――――」 5. へーいかんですよー。 五分前ですよー。 閉館五分前でーす。 「あれ…っ?」 橘義明は、がばっと起き上がった。 ノート、辞書、消しゴム、シャープペンシル、問題集。 いつも陣取る一番奥の学習スペース。 いつもの図書館。 「あれ…」 やば、眠ってたのか??と、思わず口元をこすって――。 「てっ…」 口の中、切ったのかな、それとも唇が…と顔をしかめて、指でさする。 「え……」 なんだろう、何か…この感じは…。 義明がぼんやり立ちつくしていると、見覚えのある司書の女性が、向こうの書架の前を通りすぎる。 こちらを見て、唇だけで『閉館だよー』。 義明は首をすくめて、私物をバッグに投げ入れた。 彼が図書館を出て、外の石段を降りていく。 月は正面にかかり、背の高い少年の影を、数段に分けて縫いとめるように輝いていた。 松本は、もうすぐ冬を迎える。 了('07・9・27) |