誰も寝てはならぬネッスン・ドゥルマ




「タカ!」
 玄関の右手側に設けられたガレージの前で、高耶は振り向く。
かず兄さん」
「今、帰ったのか。
 深夜だぞ、この放蕩息子!」
 長兄、一海かずみが、大仰に両手を広げて肩をすくめる。
「…欧米か。
 でも似合いますよ、そういうの」
「米国製TVドラマ育ちだからな」
 ところで、オレはあなたの息子ではなく弟ですが、と言いかけたところで、兄の背広姿に気づいて、高耶は首をかしげた。
「まさかこの時間に出社ですか?」
 寺のあとは継がない、と言い放ったものの、大叔父の不動産会社を継ぐ形になった長兄を、彼の年子の妹である実花子みかこはさんざん笑ったが、素直な次兄、光大こうだいは、
「望まれてだし、兄さんには実力があるからだよ」
 と、優しい見方をしている。
 高耶も次兄の意見に賛成だ。
 小悪党っぽい演技の好きな長兄だが、本当はまっすぐすぎる気性をその仮面で和らげているのだから。
「ちょっと東京でトラブってな。
 明朝早くには、万全にしときたいんだ」
 一海はネクタイを直しながら、溜息をついた。
「お前に運転手をさせようと思ってたのに、雲隠れだから、小野に来てくれるように頼まなきゃならなかった」
 苦笑いする末弟の肩をこづきながら、一回り上の長兄は、ふんと鼻を鳴らす。
「ここんとこ毎週か?
 母さんが気を揉んでたぞ。
 出てったら、三日戻ってこないって」
 どん、と弟の右肩に肘を乗せて、長兄は下から見上げる。
「まあ、でかくなっちゃったよな、末のチビがさ。
 …で、どうなんだ」
 声を低める。
「そんなに可愛い相手か?」
 前庭の小道を照らす明かりが、高耶の顔を二分する。
 明るく照らし出されている右頬の側で、唇が深く笑った。
「ええ、それはもう」
 彼は目を伏せた。
「ぴんと伸ばした首すじがいい。
 安っぽいアプローチなんて鼻にもかけない。
 ポーカーフェイス、を心がけてるくせに、よく見ていると、実に表情豊かだ」
 一海は、ちょっと眉を寄せた。
「整っているから、ほんとに小さな顔の動きにさえ、目が惹きつけられる。
 瞳がまたいい。
 深い清冽な泉のようだ。
 奥深くて理知的なきらめきがあって…。
 でもひけらかしたりはしない。
 実に抑制的…ストイックだ」
 高耶は兄の肘の下からするりと一歩出て、ジーンズのポケットに手をつっこんだ。
 照明の作る光の輪から、はずれそうな位置に立つ。
「時折…めちゃくちゃにしてやりたいって衝動にかられますね」
「おいおい」
 一海は困ったように顎に手をあて、ふと唇をきつい線にする。
 この弟が隠し持っている、もがきながら見えない檻に我が身をぶつけていく危うさ
――身喰いする馬のような怖ろしさを、はっきりつかんでいるのは、彼だけだ。
「どういう…相手なんだ?」
 不安の匂った兄の声に、高耶の肩は硬い。
 だが、ふっとそのこわばりが消えた。
「奥村が昔飼ってたでしょう」
 高耶は暗がりに向けて、大きくふりかぶった。
「耳がぴんとしてて。
無表情に見えるけど、こんなに表情豊かなやつは他にいないって、いつも力説してたでしょう。小さなしっぽの揺れ、鼻先のしわ。まあ、奥村も実に細やかに観察してて、何一つ見逃さないんだよなあ。
あいつ…『陸王』は病気ひとつしなくて、オレたちが高1の春まで、元気だった」
見えないボールを暗い庭へと投げてから、高耶はくるりと振り向いた。
「紀州犬でしたよね、あの白いきれいなやつ。
 多分、それと同じ種類だな」
 一海はうすく口をあけていたが、ぐっとそれをとがらせて腕を組んだ。
「今のは、デッドボール。
 押し出しで、相手チームの勝ち!」

 そりゃないよー、だの、腰に全然キレがないだろ、だのと、いい年をした兄と弟が騒いでいる玄関先に、迎えの車のクラクションが遠慮がちに響いた。

                        了('07・10・2)




28歳の高耶さんの舌は(一部)
「直江化」していた(らしいぞ、
よう知らんけど)。






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