遠音とおね響くとき




序・ 過ぎし風の日

 彼が幸せならいい
 そのはずだ
 けれど苦しい

 あの女の傍でなら
 あなたはやすらぐのか
 幸福だと笑うのか

 待てばいい
 あれは一瞬の風だから
 風が吹きすぎれば
 また―――
 あなたの傍には
 俺だけが残るのだ

 でも苦しい
 苦しくてたまらない

 この苦しみもまた
 吹きすぎてくれるのだろうか

 俺が…人であるうちに
 人の道にしがみついていられるうちに
 夜叉でさえなく
 畜生道に堕ち果てる前に



1. 叫ぶ風

 会いたい。
 会いたくてたまらない。

 仮の宿にのべられた床にも入れず、高耶は我が身を抱きしめて、立ち尽くしている。

 長い間、胸に巣食っていたあてどない飢えが戻ってきただけだ。
 28年、つきあってきたそれだ。
 もう一度抑え込んで、飼い慣らして――。

 振り向いて、むっとにらみつけていた瞳が、自分を認めて、微かに笑うようになった。

 「彼」だった。
 ずっと捜していた、ずっと。

 でも――
 「彼」はオレを知らないと言った。

 全部オレのせい。
 わかっている。

 あの日、喪くしたのは、オレのせい。
 狂ってしまえればよかった。

 今、もう一度手離したのは、オレの決めたこと。
 狂ってしまいたかった。

 会いたい、直江。
 会いたい。

 奪い取った口づけ。
 奪い取った記憶。

 彼はまた橘義明に戻った。
 17才の彼。
 オレのいない人生。
 まっすぐな未来。

 いつか誰かがあの髪に触れ、あの唇に触れる。
 彼が笑みを与え、掌を重ね、指を絡めあう誰か――。

 ああ…、
 これは全部、自分の罪への報いだ。

 悲しい辛い苦しい。
 全部彼に与えた痛みだ。

 ひざまずけ
 この痛みに膝を折れ

 苦しむ姿を見つめ、暗い征服感に酔っていた。

 喪ってはじめて――「その日」が来たことを知った。

 何よりも恐れていた「彼を喪う日」。
 こんな形の独占なんて、望んでいなかったのに――!!

 だから手離した。
 もう一度出会えた奇跡、二度と喪えなかったから、手を離した。


 あの少年に出会った時――
   怜悧な瞳
   清新な気性をおもてに映した
   美しい水のような少年
   誇り高くすがしい――

 今度こそ、形を誤らない絆を。
 彼がそう言ってくれたのだと思った。

 互いの存在に、「永遠」、に飢えて、歪んだ苦しみを産み続ける形ではなく。
 素直に信頼とぬくもりを与えあえる形に。

 けれど。
   オレは自分の中に潜むものをわかっていなかった
   直視したことがなかった
   「求められていた」から、気づかずにいた
   自分をあれほどに傷つけ、苛み続けたおぞましいほどの獣欲が、
   自分の内にもあったなんて

 いつかこの少年が――
 すべての抑制を捨てて、獣の悦楽に酔う時間を知る。
 誰と…?

 誰と彼は、肉体で交わすあの灼熱を知るのだろう。

 彼が目を向ける者、言葉をかわす者。
 すべてにきつい目を配りはじめる自分。
 誰も彼に触れるな。 叫びだしたくなる。
 どこかに閉じ込めてしまいたい。
 すべてから引き離し、誰からも隔ててしまいたい。

 オレは――おかしくなってしまっている。
 夜毎の夢は、オレを獣に変えてゆく。
 あの澄んだ水のような少年を、胸の下に組み敷いて。
 あの端正な顔が紅潮し、汗に濡れた髪を乱して――
 唇が熱い息にまぎれて、オレの名を呼ぶ。

 あの悦楽を彼と知りたい
 あの熱情を彼に教えたい

 したたるほどの汗を纏って、目を覚ます。

 あいつが欲しい。
 何もかもが欲しい。

 こんなにも欲しいのに、彼の心にはもう自分はいない。
 昔の自分も今の自分も、彼の記憶にはない。
 もっともっと焦がれる自分だけが残った。

 おまえが恋しい。
 会いたい。

 こんなにも欲しいと叫んでいる。
 でも届かないんだ。
 おまえには聞こえないんだ。
 かなしいくるしいつらい。
 なおえ。



2. 風のなか

風が吹くたび。
なにか――奇妙な欠落感がある。
向かってくる風が顔にあたり、うずまき、去っていく。

それだけなのに。

なにかが欠けている。

ふと立ち尽くして、空を仰ぎ、あたりを見回して…。
マフラーを直して、また歩き出す。

また、風が――
とおいとおいところで――

どこで?
はっとして振り返る。

どこで?
…誰が?

………誰が…?

                      了('07.9.30〜10.7)




煩悶(ごろごろごろごろ…どったんばったん)





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