夜の街を、がむしゃらに走った。 しまいに息が続かなくなって、みっともなく背中を丸め膝に手をあて喘ぎだすまで。 それから我に返り、今度は車道に身を乗り出して両手振り回し、タクシーを拾った。 行き先を告げて、あとは、逸る心を押さえつけるようにフロントシートに掛かる取っ手を掴み締めた。 相変らず、頭の中では様々な思いと感情が入り乱れたままだ。けれど。 直江に会わなければいけない。 この一念だけに、高耶は衝き動かされていた。 通い慣れたエントランスに到着してはじめて、もう、鍵を持っていないことに気がついた。 インターフォンを鳴らしたところで果たしてあの男は応えるだろうか? とにかく試してみるしかないだろうと、追い詰められた気分で考えていると、ドアガラスで遮断されている居住区からこちらの方へ、折りよく、人影が向ってくる。 「ちょっと!君!」 上がった抗議の声にはかまわず、その住人の脇をすり抜けるようにして開いたドアへと飛び込んで、そのまま脱兎の勢いで非常階段を駆け上った。 直江に会ってどうしようというのか。 一度は彼を拒絶した自分に一体何が言えるのか。 自分でも解らない。 途中の踊り場で何度か呼吸を整えながら、目的の階、目的のドアにたどり着く。 震える指をチャイムボタンに押しつけた。 何度も何度も。狂ったように。終には焦れて直接ドアをこぶしで叩いた。 「直江!!いるんだろ?!居留守なんか使ってないでさっさと開けやがれ!」 まったくとんでもない修羅場を演じているなと自覚はある。 近隣の住人に通報されでもしたら、間違いなく自分はここからつまみ出される。 そうなってもかまわないと思った。そんな騒ぎになればきっと直江だって姿を現わさずにはいられないから。 どんな手をつかってでも、今は、一目直江の顔を見たかった。 さいわい、最悪の事態を迎える前に、扉の内側でカチャリと微かな音がした。 待ち構えている高耶の前で、静かにドアが開く。まだわずかな隙間であるうちに強引にその身を割り込ませると、高耶は、後ろ手にドアを閉め、間近に男と向き合った。 数日ぶりに見る直江の顔。 やつれてはいたが、彼は、思う以上に平静だった。態度にも、顔色にも、高耶が懸念していたような荒んだ様子は見られない。 そりゃそうだ。 直江はもう立派な大人なんだから。 いつまでも照弘の言ったような可哀相な子どもであるわけがない。 高耶を駆り立てていた焦燥がしだいに醒めた理屈に取って代る。 最初から解っていたはずなのに。 だからこそ、怖気づいて逃げ出したのに。 それでも、あんな話を聞かされたからたまらなくなって、ここまで来てしまった。 ひょっとしたら、先日の自分の仕打ちが彼の古傷を抉ったかもしれないと不安になって。 ……とんだ独り善がりだ。 「バカ、みてえ……」 高耶の剣幕に目を瞠っている直江を前に、ぽつりと自嘲の言葉が洩れた。 そう、一言口にしたら、もう止め処がなくなって、高耶はそのままずるずるとその場にしゃがみ込んだ。 「ほんと、バカ……」 ここにたどり着くまでに自分のやらかした無茶が今さらながら思い出されて、その滑稽さにもう声も出なかった。 ここまで動揺してしまったのは直江の境遇と自分の生い立ちとが共鳴したからだ。 高耶自身も子どもの頃に家庭という居場所を失った。 けれど、それは子どもの自分にはどうしようもなかったことだ。 とっくに割り切って乗り越えた過去だと信じていた。 でも。 照弘の話を聞くうちに当時の痛みや絶望がまざまざと甦ってきて、直江のそれに重なった。 心傷を克服していたわけじゃない。長い時間が経つうちにかろうじて張った薄皮一枚が痛みを押えていただけのこと。 その本質はなにも変わらず、現に、こんな些細なきっかけでこうして生々しく血は流れ出すのだと思い知った。 ならば、直江は? (俺を捨てるの?) そう、直江に言わしめた高耶の言葉を、彼はいったいどんな思いで受け止めたのだろう? 考えただけで矢も盾もたまらなくなったのだ。 それでも直江は崩れてなんかいなかった。 安堵していいはずの男の落ち着いた態度が、今度は無性に恨めしくなった。 似た傷を負っていながら、何故、自分だけがこんなにも心乱して、当事者であるはずのこの男が逆に平然としていられるのか。 改めて度量の違いを見せ付けられているようで。 直江を心配してきたはずなのに、こんなにも落ち着いた直江に、むかっ腹が立つなんて。 もう、自分で訳が解らない。 「高耶さん……?どうしたの?」 蹲ったままあれこれ混乱していると、柔らかな声がした。 わた雪のような静かさで、すべてを包み込むように。 おそるおそる視線を上げれば、膝を抱えた自分の腕のすぐ脇に直江のシャツが見える。この男は律儀にもわざわざ屈みこんで目線を合わせてくれようとしているのだ。 こんな時まで優しい男に、つい、詰る言葉が口をつく。拗ねてあま噛みする猫みたいに。 「……おまえが何も言わないから。照弘さんに聞かされるまで知らなかった」 「ああ……」 唐突過ぎる台詞だったが、直江はそれですべてを察したようだった。 「ひょっとして、この間の私の言葉を気に掛けてくれていたの?…それは申し訳ないことをしました」 あなたの重荷になるようなことはしたくなかったのに、と、すまなそうに目を伏せる。 大人の気遣いをしてくれているのは解っている。でも、他人行儀なその言葉に、心の中でなにかが弾けた。 「……オレがおまえの心配しちゃ迷惑か?」 込み上げてくる激情に語尾が震えた。はっと見上げてきた直江の顔が歪んで見える。ああ、自分が泣いているのだと、高耶は、目尻を伝う熱い感触で知った。 「……高耶さん……」 おろおろと、直江が名前を呼んでくれた。 「お願いだから、泣かないで」 もう、我慢が出来なかった。 「ばかやろう!……おまえが泣かないから。だからオレが代りに泣いてるんだろうがっ!」 滅茶苦茶な理屈を言って、そのまま目の前の胸にしがみついた。 子どもの頃の記憶がないというなら。 それは、辛くて苦しくて悲しくて、そのままでは生きていけなかったから心を封じたということだ。 そのまま何事もなかったように忘れてしまっていいはずはない。 辛かったね、苦しかったね、でも、もう大丈夫―――。 誰かがそうして抱きしめて一緒に泣いてくれるのを自分はずっと待っていた。たとえその誰かが成長した自分自身なのだとしても。 そうやって受け止めてやらなければ、あの時を懸命に生きた子どもの自分が不憫すぎる。 だから、直江だって、きっと――― 「もう一回欲しいって言え。オレにいてほしいって。そうしたら、ずっと傍にいてやるから。今度こそ離れないから」 一緒に泣いて笑って子どもの時のおまえごと抱きしめてやるから―――。 しゃくりあげながら高耶がかき口説く。 「……私に…同情してくれたの?」 「そうだとも。おまえが不憫で哀れで可哀相過ぎて……だから、傍にいてやりたいんだよっ。同情なんて真っ平か? 情けを掛けられるのはお断わりか?悔しかったらオレが傍にいるうちに、同情以外の別な気持ちにさせてみやがれっ!!」 支離滅裂だ。八つ当たりだと自分でも解っている。でもとまらなかった。 「頼むから……直江…」 育ちが違う、価値観が違う。やっぱり別の世界に所属する男なのだと、どんなに御託を並べて誤魔化したところで、自分は、ずっとこの男に惹かれていた。 その理由も今なら解る。 自分たちは、同じ想いと寂しさを抱えていたから。 他人の心の機微に疎い直江の性格も、そして、そんな男に必要以上に反発を覚えた自分も。 すべて、根っこは一緒だった。 ただ、直江は――それを真っ直ぐにぶつけてきたのに、自分はそれから逃げたのだ。 重すぎる彼の感情が怖くて受け止める自信がなくて理屈を振りかざしては深みにはまるのを避けていた。 結局、そんなふうに張り通したつまらない意地の所為で直江を傷つけ、あげくにまだこんな高飛車な物言いしか出来ないのが情けないけど。 それでも、もう一度直江が欲しいといってくれたなら。 今度こそ間違えない。その手を取って、後は伴に歩んでいける存在になれるよう、自分が努力をすればいいことだ。 直江の、これまでの呻吟を思えばそれぐらいなんでもない。 直江の胸に顔を埋めそのシャツを鷲掴んで、高耶は息を殺して男の答えを待った。 永遠とも思えるような沈黙が続いて、ふいにきつく抱きしめられる。 「……必ず、あなたの望みのままに。だから傍にいてください……」 厳かに誓う言葉は、直接胸に響いてきた。 偶然の出逢いが運命という必然に変わった瞬間だった。 |