日をおかず再びこの店に足が向いた。 「いらっしゃいませ」 予想に違わず主は旧知の馴染みのごとくに出迎えてくれた。 「こんばんは。また来てしまいました」 引き寄せられるように椅子のひとつに腰掛ける。 「先日の支払いがまだでしたね」 「もう過分なほどに頂戴しておりますよ。先日とおなじものでよろしいですか?」 柔和な笑顔にこちらも自然と顔が綻ぶ。 「いえ、今日はお任せします。兄に散々笑われました。せっかく此処に寄りながらあなたにカクテルの一杯も作ってもらわなかったのかと。お恥ずかしいかぎりです」 「それは買い被りというものですよ。お兄様方には確かに贔屓にしていただいておりますが」 「なら、私のこともお聞き及びではないかと思いますが……橘の名は伏せていただけませんか?此処ではただの直江と」 「お心のままに」 軽く頭を下げて後、主は数本の壜を選り出し、鮮やかな手際でショートドリンクをつくりあげ、恭しく直江の前に置いた。 琥珀色のそれを口に含む。 艶やかなほどの柑橘の香と苦味が心地よかった。 飲干して待つほどのこともなく次のドリンクが供される。一杯目とは風味を違えたロングカクテル。 一口二口と味わううちに、眼の端をすっと白いものがかすめた。 彼、だった。 「どうぞ」 そう言って一礼すると、彼はさっさと持ち場に帰っていく。 引き止める間もなかった。 我ながらの手際の悪さに苦笑を洩らして、直江は彼の差し出したフィンガーフードの皿を眺める。 輪切りにされたスターフルーツ。チョコに浸されたオレンジピール。 幾層にも重ねられた切り口の美しいチーズと黒パンのミルフィーユ。 白い磁器の上にまるで絵を描くようにようにして、目に楽しい鮮やかな彩りが配されていて、 そのどれもが一口で食べられるように工夫されている。 そういえばと、直江は先日の晩を思い出した。 なにぶんはじめて入った店のこと、期待もせずに無造作に口に運んだそれは、皮ごと食べられる種類の翡翠色した葡萄の粒と、クルトンをまぶしたカマンベールのチーズボールだった。 味と食感の取り合わせが絶妙で、あれほど彼に気を取られていなかったら、素直にその場で感嘆の声をあげただろう。 あれを用意したのも彼だったのだろうか。 だとしたら申し訳ないことをしたし、迂闊だったと思う。 「先日は葡萄でしたね……。カマンベールと」 失態を取り繕うように思わず口をついた呟きに、慇懃に主が応えた。 「彼の発案です。ティールームで出されるものをうまくアレンジしてくれまして。おかげさまで皆様からご好評をいただいております」 ちらりと走らせる視線は慈父のように優しい。 その彼は、また一心に次の客のための皿を用意している。 真剣な眼差し。慎重な手つき。 手間ひまを惜しまないその真率な態度が、素材と酒の味を引き立てている。 視線をさらに戻してつまんだフルーツは、まるで口直しのシャーベットのようにシャリシャリとした口当りだった。 対して濃厚な味わいを醸しているのはオレンジピールとプチサンド。 それぞれが違う味わいに酒の味を引き立てて、そのどれもが捨てがたい。 酒が主体のこういう場所ではつまみはたんなる添え物だと思っていたし、おそらくは提供する側だってそう真剣には扱わないのだろう。 おざなりにグラスに添えられるのはありきたりのナッツの類が多く、今までは気に留めることもなかったけれど。でも。 「本当に、驚くことばかりだ」 そんな独り言を主は口端に笑みを浮かべ、今度は聞かぬふりをしてくれた。 ようやく彼と視線を見交わしたのは、辞去の間際だった。 先日と同じ、会釈だけを送る彼の視線を捉える。 「御馳走様でした。本当に美味しかった。ありがとう」 心からの賛辞に、彼がふっと微笑んだ。 とてもきれいだと思った。 足繁く通うようになっても、彼との距離は一向に縮まらなかった。 客との会話は主や年長のバーテンに任せているとばかり、彼は黙々と仕事をこなし滅多に直江の側には近寄らない。 思いあぐねたあげく、正攻法でのデートに誘ってみても、 プライベートまで切り売りする気はないと、にべもなく断られる始末。 舐めるように眺めていた最初の印象がよほど悪いらしい。 苦笑しながら、それでも直江は彼の売り言葉のような啖呵から一計を案じた。 |