その屋敷は、周囲から『花屋敷』と呼ばれていた。 四季折々、どの季節にも馨しい花々の香りがするために。 初冬の山茶花、初春の梅の香、沈丁花、そして卯月には遠目にも見事な枝垂の桜―― 樹木だけではない。宿根草や一年草の軽やかな草花があちこちに群れて咲き乱れるさまは、さながら昔噺に聞く桃源郷のように美しい庭なのだと。 それでも現実に邸内の様子を知る者はなく、また確かめようとする者もいなかった。 まるで呪にかけられてでもいるように屋敷の内実は閉ざされていて、庭に咲く花々の見事さだけが、時折、垣根から覗き見る童たちの口から語られるのだった。 花を育てるのが彼――直江の仕事だった。 広大な敷地のそこかしこに折々の花を育て年に数日の盛りを待つ。 馥郁たる香りとそれぞれにまとう深い色あい。そうして一年をかけて蓄えた初咲きの花の精髄を、最も美しい刻に摘み取り、それを主のもとに届けるのが。 摘んだ花を捧げ持ち、幾つもの廊下を渡り座敷を抜けてたどり着く 屋敷の最奥、決して人目に触れぬ、坪庭に面した奥座敷を主は棲処としている。 綾絹の褥に臥し、まるで眠るようにして。 白磁の肌。怜悧な造作。艶めく黒髪。 主より麗しい存在を、直江は知らない。たとえそのその瞳が常に閉ざされその朱唇は言葉を紡がなくとも。 はたして主はヒトなのかヒトでないのか或いは本来生命を宿さない人形なのか――― 束の間浮かんだ疑問は、すぐに意味を失った。 ただ、彼が在ればいいと。 そうして、粛々と直江は彼に仕え続ける。 花を載せた盆を、彼の傍近くに置く。 ゆらりと立ちのぼる花の芳香。 そして直江は静かに彼を見守る。 身動ぎひとつない彼の胸元が、このときだけ呼吸をするように微かに上下し、その頬に僅かな赤みが差してくるのを。 代わりに、黒塗りの盆の上瑞々しく盛られていた花が見る間に萎れていく。その生命を彼に移して。 そうしてすべてを見届けて、直江は横たわる主に色代し、花の亡骸を抱えて部屋を辞す。 閉ざされた室内に満ちる仄かな花の残香は、今では主の身体から薫っているのだった。 ―――主は月影と花の精気とを糧にしている。 そう語ったのは、先代の年老いた家令だった。 まだ子どもだった直江をこの屋敷に迎え入れ、手入れの仕方を教え、主に引き合わせ―――そして言ったのだ。 たかが庭仕事などとゆめゆめ侮ってはならぬ。育てた花の出来映えがすなわち主の礎となるのだからと。 直江は黙って頷いた。すでに一目で主に心奪われていたゆえに。 土と天気を相手にした単調に見える日々が始まった。 一通りのことが出来るようになった直江に全てを託し、やがて家令はひっそりと姿を消した。 一人残されても、何も変わらなかった。 屋敷に棲み付く影のような老爺がひとり、直江の身の回りの世話をする。 そして直江はただ一心に花の世話をする。主のため、より美しく馨しい花を咲かせるために。 月日が流れる。 庭も屋敷も佇まいは変わらない。もちろん主にも、刻はなんの痕跡も留めない。 直江だけが子どもから少年、そして青年へと成長していく。 いつしか憧憬の対象だった主よりも幾らか年嵩に見えるほどに。 家令が彼に伝えたのは月の明るい晩に寝所の障子を開け放つことだけだった。 子どもの頃は忠実にそれを守った。 でも今なら―――自分は、 主にもっとたくさんの月影を差し上げられる。褥から主を抱き上げ、座敷の外側、濡れ縁までお連れすることによって。 いつのまにか備わった自身の膂力に気づいた時、そうすることも可能なのだと考えいたってざわざわと胸が騒いだ。 範を越える自覚はある。 禁忌を冒すような畏怖も、恐怖も。 それでも、それ以上に、心酔する主に直に触れることが叶うのだ―――その一念に心が躍った。 暖かな弥生の宵だった。 十三夜の月が中天に昇るのを待って、直江は横たわる主に相対した。 初めて腕に抱いた主の身体は、まさしく羽のように軽く、 苦もなく足を運び障子を開けて濡れ縁へと抜けた。 遮るもののない月影が、色を喪くしてあたりを白く照らしだし、くっきりとした陰影を浮かび上がらせる。 それは主も例外ではなく、間近に見下ろす顔はいつにもまして美しく、抜き身の刃のようだと思った。 摘み残した沈丁花の香が夜気に紛れ微かな風にのって流れてくる。 艶めかしいその香りはそのまま主にまといつきその身体に吸い込まれるよう、 一瞬、その唇に妖艶な笑みが浮かんだように見えたのは、光と影の錯覚だろうか。 まじまじと見つめれば、その貌はいつもと同じに端整なまま何の表情も浮かんでいない。 それでも直江は、もう主から視線を外せず、そのまま月が傾くまで、主を腕に濡れ縁に座り込んでいた。 |