「下の収蔵品はただの目眩ましだったのでしょうね」 ずいぶん長いこと、桜に魅入られていたのだと思う。 耳に拾った直江の声で、高耶はゆっくりと現実に引き戻された。 「最初から桜を眺めるための部屋を造りたくて。でも母屋をこんな敷地の外れに建てるわけにはいかないから、 蔵と見せかけて此処を造った。外の桜に一番近い位置に。 大叔父も、代々のご先祖もこの蔵の意味を知っていて、だからこそ守っていたんだと思います」 しみじみとした口調だった。 「だって一度でもこの眺めを知ってしまったら、囚われずにはいられなくなる……」 穏やかで、優しくて、なぜだか安心してしまう声音。 この男とは数日前に初めて逢ったばかりなのに、この声はもっとずっと前から知っていたように耳に馴染む。 何か言いたいけど言葉にならない。 酔っ払ったみたいに頭がぼうっとして、うまく考えがまとまらない。 だから、しばらくぼんやりと傍らに在る男の顔を見つめていた。 額に落ちかかる柔らかそうな髪や、整った鼻梁や、幾分伏せられた鳶色の瞳を。 「直江…は?」 ようやく絞りだした声は、我ながらひどく弱々しく頼りなさげに聞こえたけれど。 引き払うことを前提に此処に来た経緯を思い起こせば、それも仕方ないと思う。 一度心に決めたことを簡単に翻すようなタイプではないのだ。この直江という男は。 横顔を高耶の凝視に曝したままで、直江もしばらく無言でいた。 やがて、押し殺したような息をひとつ。 「……困りました」 本当に考えあぐねた風情で、訥々と。 「もう簡単には手放せない。でも、私独りではとても叔父たちのように移り住むわけにもいきませんし。 暫くは今まで通り鈴木さんに管理をお願いして、休みの取れたときに通おうかと思います……」 そうして、また、黙り込む。 でも、今度は少し沈黙の意味が違う。それはたぶん高耶の心中を量りかねているから。 ああ、莫迦だな、こいつ。 逡巡の理由を察して、高耶はこっそり苦笑する。 高耶が此処にいる意味を、きっと直江は履き違えている。 顔見知りの講師に頼み込まれて仕方なく、或いは報酬の良さに釣られて義務的に手伝っているだけだと思い込んでいるのだろう。 もちろん初めはそうだったけど。今ではまったく状況が変わっているのに。 苦手にしている家事を任せっきりにしている負い目からか、直江は、高耶も此処の暮らしを楽しんでいる事実にまだ気づいていない。 まったく。ヘンなとこで鈍いんだから。 仕方がない。助け舟をだしてやるかと口を開きかけたのと、急に直江が向き直ったのが同時。 「お願いです。都合のつくときだけでいい。時々は高耶さんも同行してくださいませんか?此処に保管されてる古文書は好きなように利用してもらってかまいませんから」 思いつめた顔をして、そう一気に捲し立てた。 おいおい、今まで散々悩んでたくせして、なんでココでオレの台詞、全部さらっちゃうかなあ?? 出鼻を挫かれて少し文句をつけたかったけれど、固唾を呑んで高耶の答えを待っている直江の表情はまさに主人の機嫌を窺う犬のように健気でいじらしくて。 一回りも年嵩のガタイのいい色男がこんなに可愛く見える日が来るなんて思ってもみなかった。 ああ、もう、かなわない。 「……そして、おまえに同行したオレはまたおさんどんするわけか?バイト代もなしで?」 せめてもの意趣返し。わざと憎まれ口で返してやると、 「もちろん、お金で済むなら幾らでも払いますとも!」 戯言を真に受けてむきになるのがまた可笑しくて、高耶は声を上げて笑った。 「ウソだよ。お金なんて要らない。直江が此処を手放さないでいてくれて、また桜が観られるならそれでいい。 その、オレからもアリガトな。……故郷がもうひとつ出来たみたいですごく嬉しい」 それが、今の正直な気持ち。 「高耶さん……」 強張っていた直江の貌がみるみる和らいでいくのを見るのも、とても嬉しいことだけど。これはまだ言葉にするのは照れ臭い。 「それにほら、鈴木さんも残念がってたじゃん。もう少し早いか遅いかしたら、畑の野菜山ほどやれたのにって。 今度くる時は新じゃがの季節とか、狙ってみような」 だから食い気でごまかして。 「ステキですね」 と、直江も笑って。 そうしてあの日の桜の下の出逢いは、ふたりの必然になった。 |