その女性からはふうわりと柔らかな花の香りがした。 白梅とも藤とも葛とも違う、けれど確かに憶えのある、懐かしいような花の香が。 女性 巧みな弾き手を得た名器は、嫋々と、或いは朗々と、高く低く音色を響かせ、奏でられる外つ国の旋律が余韻を残しては闇に溶けこむ。 室内に灯台はひとつ。 紫檀に埋められた螺鈿の象嵌が煌き、そしてまた奏じる佳人の唐衣、綾地も見事な柳の襲の装束を照らしだしている。 燈火に映えるのは琵琶や衣だけではない。俯きがちの横顔にもちらちらと火影は躍る。 そこに内包される『美』を、なんと形容したらよいのだろう。 確かにそこに在るはずなのに一瞬でも目を離せば、もう顔立ちすら朧に霞む。 焼き付いているのは、美しいの一語のみ。そして、思い起こせるのは女人を容つくる個々の部位だけ。 流れる黒髪、白桃の頬。紅い唇。 蓮のように艶やかで、菖蒲のごとく凛とした、玲瓏たる花の顔 目で、鼻で、耳で。 五感のすべてで感じていながら夢幻の境地を漂うような、どこか儚いあやうい感覚。 陽炎のような美しい人の全景を記憶に止めようと、客人はひたすらに目の前の女性をみつめ続けた。 そうしてどれほど経ったのか。 不意に拍手 「逢魔刻は過ぎ去りました。そろそろ出立しても差し障りはございますまい」 涼やかな声は後ろから聞こえた。 灯台の光の届かぬ片隅、影のようにそこに座していた人影がおもむろに口を開いたのだ。 気が逸れたのは瞬きほどの間、だが今一度と視線を戻したときには、女性の姿は掻き消すように消えていた。 「さ、参りましょうぞ」 その唐突さに唖然とし、促されるまま円座を立つ。 「あの女性は……」 手燭を持ち、滑るように庇へ向かうその青年へ縋るように声をかけた。 振り返った青年はまっすぐに客人を見遣った。 そうされてはじめて、この青年の容貌も素晴らしく整っていることに気づき、気圧されて口ごもった。 が、言いさした疑問をすくい上げるように青年は言葉を返す。黒々とした双眸に不思議な色を湛えて。 「あれは人間 「では、あなたの式とおっしゃる」 必死の問い掛けに、青年はゆるゆると首を振った。 「それでは式ではないとおっしゃる?」 白皙の貌に、微かな笑みがひろがった。 「縛っているわけではないが、あれはたいそうな気まぐれもの。今は此処が気に入っている様子で、戯れに使役の真似事をしておりますよ」 「あなたさまの所有でないとすれば……」 「そう、いずれは何処へか去ぬるでしょうな。たとえば、心惹かれた者のところへでも」 元々、あの姿は滅多に人には見せぬのですよと、そう、青年が憂えげに嘆息して。 それでは望みがないわけではないのだと、逆に、歳若い公達の顔が輝いた。 夢見ごこちの主を乗せた牛車が、ゆっくりと暁闇の大路を進みだす。 公達の方違えの夜が明けたのだ。 まだ宵闇を残す御簾の内に、いつもの馴染んだ気配がする。 「今宵はまたえらく化けたじゃないか?あの公達はすっかりお前に執心だ。今日のうちにも文が届くぞ」 佇んでいたのは白の水干、長身の人影。 「いたしかた在りますまい。ああでもしなければ、あの方はあなたに心奪われたのに違いないのだから。そうでしょう?高耶さん」 苦々しく断ぜられて、くくくっと高耶と呼ばれた青年が笑った。 「オレがおとなしく口説かれるとでも?」 「お師匠様の口利きで此処までおわす御仁。あなただってそう無碍には扱えますまい」 いつしか高耶の不機嫌は影を潜めて、代わりにおもしろそうな表情に取って代わる。 「だから自ら公達の気を引いたと?貢物が届いたらなんとする。文の返事は?」 「招いたのは一度きり。もう此処には入れないのだから関係ないでしょう?それこそ外に式を遣わして品物だけ有難くちょうだいすればいい。美味い酒に換えさせますよ。 ……そう言うあなただって、わざと思わせぶりな物言いで相手の期待を煽ったくせに。いったい誰が気まぐれものですって? この失言は高価くつきますからね。覚えてらっしゃい」 自らの半身の、拗ねた声音にくすくす笑って高耶が甘えるように手を差し伸ばす。応えるように男もまた破顔して、その身体を抱きしめた。 ふわりと薫る花の香はもうどちらのものなのか。 零れおちるあえかな吐息。衣擦れの音。 白々と夜が明ける。 が、御簾の内側はいつまでも宵の薄闇を閉じ込めたままだった。 |