ぽとり、ぽとりと花が落ちる。 苔むす庭の向こうには、満開の沙羅の大木。 黄金の蕊をもつ、たわわに咲いた白い花が、ひとつ、またひとつと枝を離れ、地に降っては、濃緑の毛氈に抱きとめられる。 一方の庇側、簀子に敷いた薄縁の上では、肘枕で横たわる高耶がそれを眺めている。 すっと、背後の空気が渦を巻いた。唐突に現れた人影が、静かに高耶の傍らに座したのだ。 何も構えなくていい。背中を預けるのに、誰よりも安堵を誘うその気配に、高耶は微笑を浮かべて目を閉じる。 それまで幽かに庭に漂っていた、陽に温められた花の香りが、すぐさま男のそれと同化する。深く息を吸い込んで、吐く。それだけで満たされる気がした。 「『おまえ』を見てた。素晴らしく綺麗だな……」 吐息と一緒に紡ぐ言葉に、後ろの男が苦笑した。 「お褒めに与り光栄ですが、相変らずあなたはご自分を解っていらっしゃらない。…あなたの方がお美しいと、いったい何度繰り返したら信じていただけるのでしょうね…」 そう、溜息まじりに返されて。 その口調に、高耶がくっと吹き出した。 背後の男は沙羅の精霊。もしくはそれに近い存在。 花盛りの今ならなおさら、その精が誰よりも美しいのは当然なのに。この男は、出逢った当初からそれは違うと言い続けている。 美しいのは高耶の方なのだと。自分はただの人間で、そんなことがあるはずはないのに。 が、それを口にすれば、また変わらぬ問答が始まることも承知だったから、高耶はあえて別の問いを男に投げた。 「それよりも。届いたのだろう?」 はい、先刻。と、男は頷く。 「昨夜の舎人が再び。もっとも今度は入ること敵わず、暫く往生してましたが。宿主であったあなたへの謝礼の金子と御酒、それから絹と珍しい唐菓子とはしりの瓜が少々……」 「もちろん、おまえ宛の文もあったのだろう?直江?」 どこまでも楽しそうに揶揄されて、直江と呼ばれた男が笑う。 「はい。返事もすぐさま認めました。忘れ香を薫き染めた文箱に収めて。これでもうあの方は、昨夜のことを思い出すことはございますまい」 「上出来だ」 枕にしていた腕を入れ替えながら高耶はくるりと寝返りを打ち、今は目の前に座る男を見上げる。 「進物は有難いが、おまえが誰かに懸想されたままなのは、気分のいいものじゃないからな」 「その言葉はそっくりあなたにお返ししますよ。高耶さん」 真顔で言われて、今度は高耶が苦笑した。 結局自分たちはそういう間柄なのだ。 直江は高耶の式ではないし、力で縛っているわけではないと、あの公達にいった言葉は嘘ではないが、真実からは少し遠い。 自分たちは、互いが互いの半身と認めあった別ち難い伴侶ということなのだ。 たとえ、今の直江が沙羅樹の精霊。今生の高耶が人間に生まれついていたとしても。 高耶は由緒ある公家の家に生まれた。 幼い時から聡く賢く愛らしく、だが決して他人に馴染まず、そして人には見えぬものを視る子どもだった。 そんな末の子を家長が案じ、宮中に仕える高名な陰陽師に弟子入らせることにしたのも、ごく自然な成り行きだったろう。 そして直江は。 彼の本性は、沙羅木に封された異国の羅刹だった。 その昔、愛するものを喪って羅刹と化した男がいた。 何人も彼を滅すること叶わず、かろうじてひとりの行者がその魂を沙羅双樹の霊木に封じた。 悪鬼と同化した霊木は行者とともに海を渡り、別の地に移された。 そして、都の守護を担いながら、今も、花開くことを忘れて微睡み続けている。 「…それが、あの咲かずの沙羅樹なのですか。お師匠さま」 遥か大路の手前から、前方をまっすぐ指差す童子の問いに、これはしたりと老人が破顔する。 三拝九拝されて預ることになったさる殿上人のこの御子は、当代随一と謳われた陰陽博士が舌を巻くほどの才能の持ち主であったのだ。 「……やはり、そなたには視えてしまうか。私の結界も形無しだ」 術の破綻を嘆く台詞でありながら、その口調はどこか楽しげだった。 「さよう。羅刹の眠る沙羅であり、沙羅のための庭ですじゃ。…破邪の鎮護などついでの役目にすぎん。 羅刹を封じた行者は予見の力も持ち合わせておりましてな。鬼の見失った半身が転生を経ていずれ再び世に現れる、その土地に沙羅を移し、 そして自らにもその子孫たちにも代々その守役を課した……その末が私ですが。その長いお役目も、どうやら私で終りそうな気がするのですよ」 孫を慈しむように、童子の頭を撫でる。 あどけない表情で見上げる童子を優しく促して、老人は目指す都の外れへと、牛車を進めた。 余人には決して見えぬ門をくぐり、敷地へと入る。 瀟洒な屋敷をぐるりと迂回すれば、奥庭に主のごとくに威風堂々聳える大樹。 人間の身ならば畏怖せずはいられない、圧倒的な霊気を放つ存在。 老師でさえ禁忌を感じてかなり手前で足を止めたものを、しかし、子どもは怖れる風もなくすたすたと木のすぐ下まで近づいた。 不思議が起きたのは次の瞬間。 天を突き刺すごとくに枝を伸ばし葉を繁らせながら、それまで一度も花をつけることのなかった沙羅が、 見る間につぼみをもち、一斉に花開いたのだ。 雪のように子どもの上に花が降る。 天にも地にも、視界を埋め尽くす、一面の白の花。 まるで、眩い光に呑み込まれたよう。 何度か眼を瞬かせる間に、不意に、白い花を背景に、人影があることに気がついた。 光の中から滲み出るように現れたその人は、とても背が高くて、子どもは、梢の花を見るとき同様、 頭を反らして見上げなければならない。 だが振り仰ぐ無理な姿勢が気にならないぐらい、その顔に、見惚れた。 薄茶の髪。端正な顔立ち。自分をみつめる優しいまなざし。 知らない人だけれど、なにかとても懐かしい―――安堵に似た感覚。 何故だろう? 首を捻る間もなく、その人は子どもの前に跪いた。 そうして目線の高さをあわせる。 間近に覗き込む瞳は鳶色だった。宝玉のように透き通るその色がとても綺麗だと思った。 鳶色の瞳の人は、子どもの手を取り、掲げるように押し頂いてその甲に口づける。 「お帰りなさい。高耶さん」 深みのある声で名を呼ばれて、ごく自然に高耶も返していた。 「ただいま。直江……」 口をついて出た言葉の、その意味は解らない。 でも、ここが自分の居場所なのだと、男に触れた今、はっきりとそれだけが解った。 ふわりと抱きしめられる。 花の香りが鼻腔を擽る。まるで花に抱かれているよう。 高耶も腕をいっぱいに伸ばし、しがみつくようにして相手の身体を抱き返す。 その小さな高耶の頭の上、直江はこのうえない至福の笑みを浮かべていた。 もしやとは思いながらもまだ半信半疑でいた陰陽博士は、抱えた子どもの頭越し、自分に向かって鄭重に目礼を送る男の姿に溜息をついた。 半身を喪し、正気を手放し、暴虐の限りを尽くしていた羅刹の面影は微塵もない。 知性を湛えた怜悧な面立ち。礼節をわきまえた典雅な物腰。 その気になればこの都など灰燼に帰してしまうであろうほどの力を持ちながら、 この者の心は、高耶を得たことで鏡のように凪いでいる。 そこにいるのはもはや羅刹ではない。悪心を昇華しきった沙羅双樹の精霊だった。 「……その御子は、私の秘蔵。いずれ後継として披露め、宮中に参内をと考えておりましたが。どうやら諦めねばなりませんかな」 軽い会釈で、直江はそれを肯定した。 「それでも、彼はまだ幼い。あなたさまの薫陶を賜り、先ずは人間として成長しなければなりますまい。 ……私も側に仕えることをお許しいただけますか。お師匠様?」 「そなたほどの仁に師匠などと呼ばわれるのはなんとも面映いが…」 「この人の師なら、私にとっても師ですから。なによりあなたさまは、私を封じたあの御方の末裔なのでしょう? 尚更のこと、礼は尽くさねば」 「恨んではおられぬのか。我等一統の仕打ちを」 襟を正して真摯に問い掛ける老人に、直江は微笑んで首を振った。 「……おかげでまたこの人に逢えた……感謝申し上げます」 自分を飛び越して重々しいやりとりを交わす年長者たちを、まだ直江の腕の中に囲われたままの高耶がきょとんと見上げていた。 これが、二人の出逢い。 多少の悶着はあったものの、その後、高耶は直江とともにいることを選び、今、ここにこうして暮らしている。 「直江……」 甘い声で高耶が呼びかけ、男も心得たようにそっと高耶の頚に手を差し入れると、頭を持ち上げ自分の膝へと移した。 あやすように髪の毛を撫でられる。その感触がとても心地いい。 「すこし……寝る」 小さく欠伸を漏らして高耶が言う。 「御意」 ほどなく健やかな寝息が聞こえた。 愛しい人の髪を梳きながら、直江は高耶の眺めていた庭に視線を飛ばす。 ぽとり、ぽとりと花が落ちる。 ひとつ、またひとつと地に咲く花が増えていく。 穏やかな刻が、ゆったりと流れていった。 |