いつものように帰宅して着替えに入った座敷の隅、ふと、見覚えのある色味が目の端を掠めた。 衣装盆とは反対側に置かれた花台、その上の壺に投げ入れられた乱れ菊が夕闇に昏く沈んでいる。 視線の止まったのを察したか、背後から疑問に応える声が掛かった。 「用事があって近所まで行ったんだ。ちょうど咲いてたから庭から持ってきた」 「そう……」 接ぎ穂も浮かばず、事実だけを淡々と告げられた会話はすぐに途切れて沈黙が落ちる。 お互い無言で部屋着を羽織り帯を締める頃には、彼も手入れの終わった上着を箪笥に仕舞うところだった。 そうして扉を閉めて、まっすぐに振り返る。相変わらず感情の読めない瞳で、義務を果たすのだと言わんばかりに。 「メシは?どうする?」 「…いただきます」 「じゃあ、すぐ支度するから」 いつもと同じ問答を今日も繰り返して、彼は静かに部屋を出て行った。 清冽な菊の香がまるで彼の残り香のようにあたりに漂い、直江の心の底にまた一片の澱を降り積もらせた。 通りかかったのは、ほんの偶然。 隠遁を気取る知己を訪ねようと入り込んだ郊外の路地の奥、似たような垣根の続く一画で目に飛び込んできた彩り。 透明な秋の陽射しに輝く、錆朱の色した菊花の一群れ。 野放図に草の生い茂る荒れ果てた庭の中、そこだけが艶やかに華やいで見えた。 その光景に目を奪われ、垣根越し凝と佇んでいた自分の姿はさぞ奇異に映ったのだろう。やがて住人らしいまだ若い青年が縁側から現れた。 「なにか御用ですか?」 言葉遣いこそ丁寧だが、警戒と不審を露にした問い掛け。 弁解しようと視線を移して、再度、目を奪われた。 その人こそが高耶だった。 一目惚れだったのだと思う。 何をどう話したのか、覚えていない。 その強い視線に魅入られたまま、しどろもどろに言葉を重ねてどうやら怪しい者ではないと解ってもらえたらしい。それとも単に厄介払いをしたかっただけなのか。 彼は一度姿を消し、鋏と反古紙を手に戻って、無造作に折り取った数本の菊の枝をざっと包んで直江に渡した。 礼を言う直江に軽く会釈を返して、今度こそ奥へ引っ込む。 無意識に胸元に抱え込んだ花がなければ、陽射しが見せた幻かと疑うような出逢いだった。 夢遊病者のようにしてしばらく彷徨い、ようやく探し当てた知己の家で当初の所用はそっちのけで彼のことを問い質した。 そして不遇な身の上を知った。経済的にかなり逼迫していることも。同時に病身の妹がいることも。 なんとかして力になりたいと思ったのは嘘ではない。彼に近づく好機だと打算はあったにしても。 住み込みの書生としてその身を預かりたいと、 使える伝手はすべて尽くして彼に話を持っていった。 零落はしていても誇り高い彼のこと、彼一人だけだったならこんな胡乱な話には靡かなかっただろう。 けれど、設備の整ったサナトリウムに妹を入所させられるとの条件が彼の心を動かした。 彼女の患う病は根気よく治療と療養を施せば完治する類のものだったが、今の状況では到底望めないこともまた身に沁みていたからだった。 まずはカタチからでいい、彼を傍に留めておきたい。 それから先は、自分という人間をじっくり彼に見極めてもらってからでかまわない。 そうして信頼を培い、いつか心通わせられる存在になれたら――― そんなあまやかな願望を心に秘め、彼と暮らし始めてから、もう一年。 それなのに、実際は――― 一年前、彼に手渡されたのと同じ花を眺めながら、直江は苦く自嘲する。 いったい彼はどんな想いで因縁のこの花を飾ったのだろう?と、否応なく波立つ感情をもてあましながら。 |