小菅さまが「夏宵悠遠」のイラストを描いてくださいました。
その景虎さまの表情に、もうぐるぐるが止まらず、つい番外を…(苦笑)
本編とは流れが微妙に違いますが、笑って読み流してくださると嬉しいです。
小菅さま、ステキな「ニンジン」をどうもありがとうございました<(_ _)>
夏宵悠遠 番外 百合野幻想 1
―――途方にくれたこどものような貌をしていた。 一瞬、我が目が信じられなかった。 これがあの景虎君か? 凛とした美貌、名門の出自、洗練された所作と音曲に秀でた才―――天からさえ愛でられているような、 これが、本当にあの、誇り高い相模の御曹司なのだろうか? 時に周囲を魅了し、時に睥睨していた怜悧な視線は、今は虚ろに宙を彷徨っている。 すべての虚飾を剥ぎ取ったかのような素の表情はひどく幼く、 そのいとけなさに胸を衝かれた。 すぐさま、そばに駆け寄りたかった。 駆け寄って手を差し伸べ、頬の血糊を拭いとってやりたかった。 その頭を胸に抱きしめ、優しく腕に囲って宥めてやりたかった。 大事ない。悪いのはそなたではないのだと。子を庇う母のように、湧きあがる庇護欲そのままに。 ―――もしも母御前であったなら、迷わずそうしていたろうに。 自分は母ではなく、彼もまた幼子ではない。 そのまま固く拳を握りしめ、蹌踉と歩む背中を見送ることしかできなかった。 心の何処かで悟っていたのだ。 抱きしめたとて、どれほど呼んだとて彼の心は還ってこない。決して自分には靡かないのだと。 己の無力を、その現実を、他ならぬ彼自身に突き返されるのが恐ろしかった。 そうしてただ彼が立ち去るのを見つめていた。 掌にきつく爪を立てたまま。 凄惨な現場には刀が残されていた。 朋輩の血を吸った抜き身の刀身を拾い上げ、丁重に拭いを掛ける。 程なく、今度は落された鞘を見つけた。 相模の父君から賜ったという拵えには、少し焼け焦げた痕があった。 それすら、義父君の慈愛の証なのだと。 その経緯はいつのまにか家中に知れ渡っている。 あの方は―――父君方にはあんな表情をさらすのだろうか? ご存知なのか?お屋形様は? 曰つきの鞘を凝視しながら、不意に湧いた疑念。 あの貌を、自分以外の誰かが知っている。知っていて愛している。そう思うだけで胸が灼ける。 ―――たとえば、あの方の抱擁ならば、放心した彼の瞳に光を呼び戻すことは叶うのだろうか?と。 どれほど立ち尽くしていたのか、百合のざわめく気配に我に返った。 咄嗟に身を潜めたすぐ傍を、景虎の側近の一人が通り過ぎる。 只ならぬ主の様子に何を察したものか、仔細を探りに来たのだろう。 落ち着かなげにあたりを窺っていた男は、転がる骸を目にするやいなや、今度は脱兎の勢いで駆け戻っていった。 その動転ぶりが、逆に直江の頭を冷やした。 長居は無用。痕跡を消しながらその場を後にした。景虎の刀とともに。 評定に差し出せば証拠となる凶器の刀を、直江は黙って研ぎにだし、血曇りを拭い去った。 そして口の堅い者を通して、密かに持ち主のもとに届けさせた。 どういう意図か?誰の仕業か?敵か味方か? 人知れず戻された刀は、彼の側近たちをして様々な憶測をよぶだろう。 右往左往しているだろう彼らを思い描いて、直江は薄く笑う。 そして当の本人だけが、眉ひとつ動かさず平然と事実を受け入れるのに違いない。保身の為の用心など何ひとつ考えずに。 夏の間中臥せっていたという景虎は、その後ほどなく城中に出仕した。 少しやつれた面に相変らず毅然とした表情を浮かべ、百合野の姿は微塵もなく。 その腰に佩いた愛刀を見るたび、直江は小暗い優越を感じる。 彼は気にも留めておらぬだろう。 だが、自分が彼を救った。そして、同時に彼の喉もとに突きたてられる牙を隠し持っているのだ。 彼に対して抱く、この屈折した情念はいったい何なのか。 自らその答に辿りつくには、まだしばらくの時間と痛みを経ねばならなかった。 |