千のカレット





闇の濃くなる暁闇の刻にそのひとは静かに小屋に戻ってきた。
息を潜めて寝たふりをするキメイのそばをすり抜けて自分の寝床へと向う。
微かに巻き起こった風が彼の纏った冷たい空気と夜露の匂いを運んだ。
いったいこの人はどれだけの時間、外に佇んでいたのだろう?
寝返りを打つふりをしてそっと奥をうかがってみる。
こちらに背を向け身じろぎせずに横たわるその姿からは、もう、 日の出までの一時を眠るのか、まんじりともせずにこのまま夜を明かすのか、 それすらも察することは出来なかった。





風にのって遠く波の音が聞える。
いや、これは耳に馴染んだ波の音ではない。風に揺すられざわめく森の葉ずれの音だ。
昏い虚に彷徨う異形のものまで呼び寄せてしまいそうな―――
ぶるりと身を震わせて、キメイは、明るく爆ぜる炉辺の火とそこにかかる土鍋とに意識を戻した。 ぷつぷつと呟くようにあぶくを立てる、その楽しげな音にだけ集中すればいい。
大丈夫。此処は婆さまの懐も同じ、結界に守られた場所なのだから悪しきものなど入ってこない。それにしても早く帰ってきてはくれないだろうか。
鍋の中身を焦がさないようかき混ぜながら、キメイはひたすらに師匠の帰還を待ち侘びていた。

庵の主でありキメイの師匠でもある婆は、日暮れ前から留守にしている。 不安そうにしているキメイを残し、作りかけの薬と火の番とを言いつけて。
「おまえのつくるその薬がすぐにでも入用になる気がするんだよ。それと新しい寝床もね。奥に用意しておくれでないか」
予見の力も持ち合わせている婆はそう言い置いて出て行った。
外に光の残るうちにたっぷりの干草を運び込み、布を被せて整えた。
婆の話しぶりでは怪我人が運び込まれるのかもしれない。それならば綺麗な水も必要だ。沈む陽と競うように井戸に走って水瓶を満たし、 毛布も清潔な布も多めに用意した。そして炉の片隅にいつでも湯が使えるよう鉄瓶を掛けておく。
思いつく限りの準備を終えて一人きりの簡素な夕餉を摂った後、キメイに出来るのはひたすらに鍋の中身をかき混ぜることと、 考えることだけだ。
孤独に耐え沈黙のうちに思索を巡らすこと。
薬の扱い同様それも大事な修業の一部だと婆は言うけれど、それを実践するのは、まだ稚いキメイにとってはなかなか難しいことだった。
耳が拾う外界の音に、どうしても気持ちが不吉な方へと引きずられてしまう。
闇夜の森には異界に通じる口が開くからと、此処に来る前、昔語りに聴かされて育った所為で。
そうでなくても黒々とした影に染まる夜の森は充分すぎるほど畏怖の対象だった。

そんな人一倍怖がりの自分が、村よりさらに森の近く、呪術と薬師を生業とする女賢者のもとに身を寄せることになったのは皮肉な話だ。
人里離れてぽつねんと庵を構えるその婆が己の後継にとキメイを望み、そしてそれは受け入れられた。
すべてはキメイの預り知らぬところで進められた、運命だった。

短調な日々だった。
村人からは一目置かれる存在とはいえ人間の身であることに変りはなく、婆も食べ、そして着なければならない。 求めに応じて処方する医薬の謝礼や折々の付け届けはあるものの、自給自足に近い庵の暮らしでは、 キメイの仕事も村に居た頃とさほどの変化はなかった。
ヤギを飼いその乳を搾り毛を梳いて糸を紡ぐ。
小さな菜園と数本の果樹の手入れや鶏の世話も怠れない。
もちろん細々とした家の仕事もあったから、キメイには身体が幾つあっても足りないように思えた。
婆は寡黙で素っ気なくはあったが決してキメイを邪険に扱うことはなく、 賢者特有の根気よさで自分の知識と技とをキメイに伝えた。
キメイもまた母に対するようには甘えられなかったけれど、やがて、肉親よりも強い絆と敬愛とを婆に抱くようになった。






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五年前からことあるごとに虫歯のように疼くネタに、
この際、無理矢理にでもカタチを与えて吐き出してすっきりしたい気分に(苦笑)
なんじゃこりゃ?と思った方、ごめんなさい。
思い切り趣味に走ってます。。。








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