千のカレット
―2―





そのひとは、いつも空を見ていた。
崩れかけた石造りの塔の上で。風になびいて波のように葉先が揺れる、見渡す限りの草原で。 あるいは、丘を登りつめたその突端、緩やかな弧を描いて海と空とを分ける水平線を背景にして。

思えば、彼とはずいぶん長い時間を共に過ごした。
彼に任された家畜の世話や薬草の収集や、どうしても男手の要る外回りの修繕などに。
寡黙だったけれど、それだけの人ではなかった。
可愛いらしい仔ヤギに向けられる微笑みや、真剣な眼差しと慎重な手つきで首尾よく崖の上の花を摘み取った時の、してやったりの笑み。 その時々の一瞬一瞬に浮ぶ鮮やかな感情、いろいろな貌を確かに知っているはずなのに。
そのひとのことを考えるとき、真っ先に脳裡に浮ぶ彼はいつも、真っ直ぐ大地に立ち祈るような瞳で遠くを見つめている。

おそらくは一人きりの夜も。
彼は満天の夜空に手を差し伸べ、一心に祈っていたに違いない。
此処にいるから。自分は此処にいるからと。
今は傍らにいない、引き離された大切な誰かに向けて。






夜の森が怖い。闇夜の風が怖い―――
庵にきて初めての嵐の晩、轟き渡る風の音に縮こまるキメイの 途切れ途切れの訴えを、婆は苦笑しながら聞いていた。
村の大人たちが危険な場所に近づかせぬため、森の不思議について少々大袈裟にその子どもらに吹聴するのはよくある話だ。 その教育的な寝物語が、感受性の強いこの娘には効き過ぎの感があるのもまた、仕方のないことかもしれない。
けれど手元に引き取った以上、いつまでも村の子どものままでいさせるわけにはいかないから、婆は怯えるキメイの背中をさすり穏やかに真実を諭して聞かせた。
村人のいう森の不思議は、半分本当で半分嘘だ。
異界への通路は確かにある。その口が開きこちら側の人間を吸い込むこともあれば、あちら側のモノを吐き出すこともある。
婆の言葉にキメイは目を見開いて震え上がった。
嘘どころではない。それではあの恐ろしい昔話は掛け値なしに本当ということになるではないか。
だが、そんなキメイの心を見透かしたように、婆はゆっくりとかぶりを振った。
そうして迷い込む異形すべてが悪いモノとは限らない。 人間の外見が違うように、その心根がそれぞれ異なるように、異界のものにも悪しき存在とそうではないものがある。
まずは己自身から心の曇りをなくしその本質を見極めるようにならねばならないと。
冗談ではない。そんな真似は絶対自分には無理だ。
声にはならなかったその叫びも、婆には聞こえたようだった。
にっこりと笑って女賢者は宣言した。
大丈夫。マレビトが現れるのは数十年に一度あるかどうか。その頃までには、おまえさんにも充分智慧と度胸がつくだろうよ―――

婆の口にする予見は大概正しかったけれど、幸か不幸か、この部分だけは見事に外れた。
庵に来てからたった数年でキメイはマレビトと遭遇することとなったのだ。

象牙の肌。漆黒の髪。
あの夜、屈強な村人の一人に背負わせて婆が連れ帰ったのは、 新月がそのまま形を為したような細身の青年だった。






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そんなわけで、高耶さん登場・・・。
時系があちこちに飛んでますが、ラインで区切ったほうが解りやすいかな?







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