季節は進んで、六月の終わり。 梅雨の長雨と、時に夏の陽射しが照りつける、そんな時期になっていた。 シロツメクサの土手道はすっかり夏草に覆われてしまった。 自由に歩かせてやりたくとも、バーナムがすっぽり隠れる丈の叢ではそろそろノミやダニが心配だ。 予防薬は飲ませているものの、危うい場所は避けるにしかず。コースを変えたのと、雨続きで散歩そのものに出かけられない日も多くなって、バーナムは少し荒れるようになった。 壊す。散らかす。粗相する。 外に行けないフラストレーションは、室内で一緒に遊ぶ時間を増やす程度では収まらなかったらしい。 誤飲でもされたら大変だ。藤澤にも相談しながら対処法を考えあぐねていた時――― 「ドライブに行きませんか?」 直江からそんな連絡があった。 「高速のサービスエリアにドッグランが併設されているんです。バーナムをそこに連れて行くのはどうかと思って。もちろん藤澤さんが了解してくれればの話ですが」 ああ、そうか。そっちが目的か。 直截な誘い文句に、一瞬ドキッとしてしまった自分に苦笑しながら、それでもやさぐれバーナムにとっては渡りに舟の美味しい話だ。 高耶に否やはなく、ふたつ返事で頷いた。 約束の週末も、あいにくのぐずついた空模様だった。 それでも迎えにきてくれた直江の車に乗り込めば、いつもとは違う非日常の空間。 後部座席で耳をぴんとたてて緊張した様子のバーナムに気を配りながらも、心が浮き立つ。 目的地のサービスエリアまでは一時間とちょっと。 到着する頃には曇りながら雨はあがって高耶をほっとさせた。 「直江さん!あれってボルゾイだよな。すっげー、オレ、実物、初めて見た!」 駐車スペースからフェンス越しに覗ける施設ではすでに何匹かの犬たちが走り回っている。 脚の長い大型犬が広い敷地をリードなしで全力疾走する様はなかなかに壮観で、つい視線がそちらにいってしまう。 ともすれば歩みが止まり、フェンスの中を窺う高耶を、後から、直江がそっと促した。 「さあ、私たちも入場しましょうか。全犬種用の表示なのでボルゾイのいるほうにも入れなくはないですが……。まずは小型用のランでバーナムの様子を見たほうがいいでしょうね」 「あ…そうでした。バーナムもゴメン」 うっかり当初の目的を忘れるところだった。そのバーナムはリードに繋がれ、おとなしく高耶が動き出すのを待っている。 その真っ直ぐな瞳が今は少し後ろめたい。 「えーと。小型犬用の入り口は……向こうかな?」 高耶はそそくさと歩き出し、三重になったゲートを抜けてバーナムとともに中に入った。 初めてみるドッグランは、だだっ広い地面といった印象だった。 所々に芝があり、雨上がりのぬかるみもあり、トイレ用のポールと水飲み場と、たぶん人間用の幾脚かのベンチ。 「要するに空き地なのかな」 「そうですね。その空き地が今は貴重ですからね」 バーナムの様子を観察しながら、まずはフェンスに沿ってぐるりと歩く。 おびえたり興奮しすぎるなら遊ばせるのは論外だ。 けれどバーナムは何匹かいる先客の犬たちに吠え掛かることもなく、互いに匂いを嗅ぎあって無難に犬同士の挨拶をこなしていく。 これなら平気だろうと、リードを外した。 「ほら、バーナム!思い切り走って来い!」 「ワンっ!」 お気に入りのボールを今日は手加減なしで遠くへ投げると、バーナムは高耶の足元から弾丸のように飛び出した。 途中のぬかるみをものともせず、泥を跳ね上げながら一直線にボール目掛けて追いかける。 「あちゃー。投げる軌道を間違えたかも……。ごめんな。直江さん。この調子だと、バーナム、泥だらけになっちまう」 車内を汚すのを心配する高耶に直江は笑いながら頭を振った。 「そのために来たんだから、気になんてしませんよ。思いっきり遊ばせてあげてください。ほら、もう追いついた。彼はなかなかのハンターですね」 ほとんどフェンスの際まで転がったボールの前に回りこみ、すばやく脚で捉えると、バーナムはボールを咥え意気揚々と高耶の元に戻ってくる。 「よーし。お利口さん!」 ぐりぐりと頭を撫で回しては、期待に満ちた眼差しにもう一度。 そんなキャッチボールを何度か続けているうちに、他の犬までもがバーナムと一緒にボールを追いかけだした。 えっ?えっっ? 予想外の出来事に慌てて高耶はあたりを見回す。 犬同士取り合いの喧嘩でも始まったら大変だと、助けを求めて他の飼い主を探したのだが、視線があうそれらしい人たちは、まるでお任せしますとばかりに、にこやかな会釈を返すだけで。 「どなたも気にしていないみたいですよ?わんこもみんな楽しそうだし、もう少し続けてみたら?」 そんな直江の言葉にも押されて、しばらくの間高耶は数頭のわんこの遊び相手を務めるハメになった。 駆ける。跳ねる。取り合う。 ひとつしかないボールを巡っての駆け引きは、まるで球技の試合のよう。勝者が絶えず入れ替わる。なのに、なぜかボールを持ち帰る先は自分の飼い主でなく高耶の許だ。 「もうダメだ〜〜。直江さん代って」 際限なく全力投球を強いられて、ついに高耶が音を上げた。 頷いた直江がボールを受け取り、おもむろに振りかぶる。 高耶の時より数センチ高い位置から放たれたボールは、きれいな放物線を描いて飛んでいく。 一斉に駆け出す犬たち。 ほんとに何をやらせても絵になる人だな。 荒くなった息を整えながら、そんなことを思った。 このときの勝者はコーギーだった。 直江はボールを咥えて戻ってきたコーギーの頭をおざなりに撫でると、そのままぽとりとボールを落として両手を挙げた。 もうお終いの意思表示はしっかり彼らに伝わったらしい。 一匹が別の何かに興味を引かれたらしく高耶たちから離れる。 と、それに釣られたように他の犬たちもまた互いにじゃれあいながら駆け出していった。 「ふぅ、助かった。どうもありがと、直江さん。オレ、こんなにわんこに囲まれたの、初めてで。……一匹一匹は可愛いのに、なんかすごい圧だったよな」 高耶のぼやきに、笑いながら直江が返した。 「もてもてでしたね。高耶さんは、いつだって一生懸命だから。それがわんこにも解るんでしょうね」 話しながらも、他の犬と駆け回っているバーナムからは眼を離さない。 傍らで一緒に見守りながら、なんだか自分たちも見られているような視線を感じる高耶だった。 その視線の主はバーナムと一緒に遊んでいる犬の飼い主たち。 それも女性がほとんどだった。 一人が意を決したように近づいてくると、後はたちまちたちまち数人が加わって井戸端の輪が広がった。 ボール遊びの御礼に始まって互いの犬の紹介、散歩の悩み、新しいグッズの使い勝手などなど、ためになる話も多かったけれど、その会話の相手がおしゃべり好きな妙齢以上の女性たちでは、 高耶には荷が重い。 目線で助けを求めると、後は直江が引き受けてくれた。 ほっとしながら高耶は半歩輪から外れて聞き役に回る。 彼女たちより頭ひとつ分以上も図抜けた直江は相変わらず丁寧で慇懃な受け答えで、まるで気品溢れるどこかの王族のよう。 なんだか小型犬に囲まれたボルゾイみたいだ――――そんな失礼なことも考えたりした。 頃合いをみて会話を打ち切り、バーナムを呼び戻す。 帰ってきたバーナムは、見事なまでに泥まみれだった。 「……犬の洋服って飾りじゃなかったんだ。着せてきてよかった〜〜。初めて有用性を認識したかも」 帰ったらお風呂場に直行なのは間違いないけど、とりあえず、どろどろの服を取り替え、持参のタオルで顔と脚を拭けば、まあまあ見られる格好になった。 これで車に乗せても大丈夫――――ほっと一息ついて傍のベンチにへたりこむ。 すでにドッグランを後にして、そこは、サービスエリアの広場の片隅だった。 「お疲れさまでした」 しばらく虚脱していると、席を外していた直江がペットボトルを渡してくれた。なにやら大きな袋も提げている。 「あ、どうも」 遠慮なく受け取って一気に呷る。しゅわしゅわする炭酸の喉越しが気持ちよかった。 「それから、こんなもので申し訳ないですが」 差し出された紙袋を覗き込めば、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。 中には、このサービスエリア名物のバーガーやスナック、テイクアウトの器に入ったサラダやパスタなど、 いったい何軒回ったんだ?と思うほどの種類と量の軽食が詰め込まれていた。 「フードコートにはバーナム連れではいけませんから。お昼はこれで……」 申し訳なさそうに直江は言うけれど、とんでもない。 高耶はぶんぶんと首を振って、いただきますと手を合わせ、心づくしのご馳走をぱくついた。 帰り道。 後部座席のバーナムは、ぐっすり眠っている。 助手席の高耶も、ともすれば瞼がくっつきそうになるのを必死で堪えている。 「無理しないで、眠たかったら寝てください。責任もって家まで送り届けますから」 「ごめんなさい。お言葉にあまえます……」 言うなり、高耶の意識はフェードアウト。 少し身体がずり落ちて、すぐさま眠り込んでしまったらしい様子に、直江がそっと微笑んだ。 一回りも年下の青年が、なぜこうも心にかかるのか。 彼の表情、声、その心遣いににじみ出る気性。なにもかもが好ましい。 まるで恋に落ちたみたいだ―――と、そう考えて、首を振る。 もう自分にあの感情はやってこない。 あの激流のような先の見えない感情に突き動かされて、挙句に奈落に叩き込まれるのは、もう、たくさんだ。 それでもこの人といるのは心地いい。 もちろん、もの言わぬわんこ、注いだだけの愛情を返してくれるバーナムはもちろんのこと。 だから、もう少し。 もう少し、このままでいたい。 藤澤の友人として、不在がちの彼に代り心安く頼られる年上の存在として。 くうくうと小さな寝息が聞こえる。 いつだって全力投球のこの青年は本当に疲れてしまったのだ。 シートに預けていた頭がぐらりと傾いで、額に落ちた髪が揺れた。 ぴくりと震えるのに、こちらまでどきりとしたが、目覚めるまでには至らなかったようだ。 案外、夢の中でバーナムと遊んでいるんじゃないだろうか。 先ほどの、犬たちに囲まれていた彼を思い出す。 まるで犬の幼稚園の保父さんのようだった。あの陽だまりのような笑顔は天性のもの。きっと彼らは本能でそれを感じ取れるのだろう。 彼のあの貌にまた逢えるのなら―――― 彼に告げる機会は逸してしまったけれど。 あのサービスエリアを通過してさらに走れば、海に行き着く。 梅雨も明けた頃、青空の下の夏の海は、このうえなく彼に似つかわしい気がする。 また、誘ってみようか。 そんなことを考える直江だった。 |