バーナムと一緒 U
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一生一度と思えるような恋をした。
十代の頃、年上の女性に。
その恋は成就することなく潰えてしまって、それ以来、世界は色彩を喪った。
淡々と、粛々と、ただ生き長らえるだけの日々。
感情を揺すぶられることなどもうないと思っていたのに。
その日、義務で尋ねた知人の庭先で、きらきらと輝くばかりの笑顔に出逢った。
五月の陽射しに水飛沫。弾けるような笑い声。何もかもが眩かった。
光の中、犬と戯れるその人は今を生きる喜びに溢れていて。
それは、まるで―――



やわらかな色合いの花が光に透けている。
デルフィニウムにトルコギキョウ、数輪のバラとフリージア、そして名も知らない淡い色味の小花の花束。

「本来なら仏さまにバラは避けるべきなんでしょうが、でも加奈子さんがお好きだったので…」
あの日、直江と名乗った男は恐縮したように呟いて、抱えていた花を高耶にそっと手渡した。
同じぐらい恐縮しながら高耶はそれを受け取って、どうしようかとあたりを見回す。
リビングに違和感なく設えられている仏壇は言われなければそうとは気づかないデザインで、 当然のこと、普段から仰々しい花びんは載せていないのだ。

「かさばるようでしたら、どうぞ小分けにでもしてお好きなところに飾ってください」
神妙に手をあわせていた焼香が済んでもなお、困惑顔で花を抱えている高耶に気づいて、男が再び声を掛けた。
「私が考えなしでした。バーナムがいるのに、大きな花びんは置けませんからね」
恥じ入るように呟いて高耶に向き合う。
「あげていただいて、どうもありがとうございました。藤澤さんによろしくお伝えください。では、これで……」
「ちょっと待って!せめてお茶の一杯ぐらい出さしてください!すぐ用意しますからっ!」
男の暇乞いを途中で遮り、高耶は慌ててキッチンに飛び込んだ。
見知らぬ人だの話題に困るだのと躊躇している場合ではない。藤澤の知人に違いないこの人を、 加奈子に丁寧に手を合わせてくれたこの人をこのまま帰したらそれこそ留守番の役にも立っていないではないことになる。
腹を括って珈琲を淹れ、カップを盆に載せてリビングに戻る。
と、床に屈んだ男に、しきりにバーナムがじゃれかかっているのが目に入った。
「こらっ!バーナム。行儀悪いぞ!」
自分を叱る声にぱっと飛び退ったバーナムは後ろめたそうに高耶を見上げ、そのまま、テーブルの下に潜り込む。
男の傍から離れようとしない様子に、以前からの知り合いなのかと首を傾げていると、
「……すみません。彼はこれが欲しいんだと思います」
向かい合わせに座った男が、これまた後ろめたそうにポケットを探って種明かしをしてくれた。
出てきたのは、高耶もよく知るフードの小袋。ご褒美用のおやつジャーキーだ。
「前に何度かあげたことがあって、きっとそれを覚えていたんでしょう。いささか姑息な手段でしたね」

確かに。気を引くには一番手っ取り早いけど。でも。
「……藤澤さんに怒られたりしませんでした?」
 つい気になって訊いてみる。返る答えは即答だった。
「怒られました」
「……やっぱり」
どちらからともなく上体を屈め、顔を寄せ、潜めた小声になってしまう、それはまるで秘密を共有する共犯者の会話。
そして二人同時に吹きだす。
その場の雰囲気が、一気に和んだ。
せっかくのお土産だからと、高耶はバーナムにジャーキーを渡す。
きらきらとした瞳で一心に高耶を見あげ、『待て』から『よし』への合図を待つバーナムを、目を細めて男も見つめる。
尻尾をぱたぱたさせながら、首尾よくゲットしたおやつに夢中でかぶりつく彼の姿は、見ている自分たちをもほっこりとしあわせにしてくれるものだった。

バーナムを中心にいくつかの世間話。
改めて名乗りあって、寄宿に至るまでの経緯。その後のあれこれ。
取り留めなく話す間に互いのカップは空になった。

ゆったりとした動作で直江が手にしていたカップをソーサーに戻す。ああ、そろそろ潮時。これでおしまいなんだなと、ふと思った。少し、名残惜しかった。
予想に違わず、では、と、改まった表情で、直江が顔をあげる。
「図々しくあがりこんですみませんでした。でも、お話できて楽しかった」
 折り目正しい辞去の挨拶。
だから高耶もよそ行きの顔で応えた。
「また是非いらしてください。その、藤澤さんのいる時に。直江さんに会えなかったの、すっごく残念がると思うから」
 直江はにっこり微笑んだ。
「そうですね。また寄らせてもらいます。その時は甘いものでもお持ちしますね」
えっ?!
突然振られた言葉に戸惑うのがそのまま表情にでたのだろうか、直江の笑みはさらに深くなった。
「だって、藤澤さんが在宅だったら、もうバーナムにおやつは貢げないでしょう?だから、あなたに。それともケーキはお嫌いですか?」
「いや好きだけど……」
 問題はそこじゃなくて。わたわたする高耶にはかまわず、直江は大袈裟に安堵して見せた。
「ならよかった。評判の店を知っているんです」

子どものように邪気のない笑み。
端整な顔立ちの男がこれをやったら反則だろ?
そう思わず突っ込みたくなるような、天下無敵の微笑だった。
時間にして三十分足らず。
それだけの出会いと会話だったのに、その日の高耶は一日中雲の上にいるみたいにふわふわと心もとなかった。


やわらかな色合いの花が光に透けている。
リビングのテーブル、キッチン、洗面所、そしてもちろん加奈子の写真の傍らにも。
勧められたとおりに分割してグラスに活けられた花は、それから十日ほど、家の中に華やぎと潤いをもたらした。

うちの中に花がある生活っていうのも悪くないもんだな。
折にふれて視界に入る色彩を見ながら高耶は思う。
今も昔ももっぱら経済と食欲が優先されて、花を飾る優雅な暮らしぶりには縁がなかった。
それを恥ずかしいとは思わないけど、なんの気負いもなく花を抱えて他家を訪問できる余裕は、男として羨ましい気もする。
直江さん、花持つ姿がサマになっていたもんなぁ。場馴れしてるよな。
物想いはいつしかあの男のことに辿り着いて、高耶はぶるぶると首を振った。

直江が訪ねたその日のうちに藤澤にはメールを入れた。
藤澤からは了解の旨返ってきたけれど、数日後、帰宅した彼に改めて詳細を告げるとひどく驚いた顔をされた。
直江君が上がりこんでお茶を飲んでいったって?
やっぱり勝手に家に上げたのはまずかったのだろうか?
「お花をもってきてくださったので、そのまま帰すのは申し訳なくて…、なんかバーナムも懐いていたし」
ぼそぼそした言い訳を、藤澤は、いやいやいやと手を振って途中で遮る。
「責めてるんじゃないんだ。むしろ、引き止めてくれてありがとう。ああみえて彼は人見知りが激しくてね。 普段はなかなか家に上がってくれないもんだから、吃驚してしまって」

そうは見えなかったけど?
小首傾げる高耶に、
「ま、高耶くんの人徳なんだろうな。本当にありがとう。君がいれば本当に彼と再会できる気がしてきたよ」
これからも、よろしくと、なんだかわけの解らない感謝をされてその話は終わったのだが。
一月も経たないうちに、藤澤の予感は本物になった。

藤澤も在宅の日曜日、直江は本当に訪ねてきて不義理を詫び、旧交を温めていった。
久しぶりだという二人の邪魔にならないよう、最初はお土産のケーキだけを相伴するつもりでいた高耶も、 気がつけば、そのまま年長者たちの会話の中に加わっていた。

愉しい時間だった。
それは直江にとっても同様であったらしい。
年に一度だった藤澤家への訪問が、様々な用件と口実で二度、三度と次第に頻繁になっていったから。


「やっぱり高耶くんのおかげかな?」
笑いながら藤澤が言う。
「まるで恋人に会いに来るみたいにうちにやってくるようになったからね」
「……そして熱心にバーナムと遊んでいきますけど?」
 冗談だと解っているから、高耶も笑ってさらりと返す。
言外に彼の目当ては自分ではなくバーナムだという思いを込めて。
それでも藤澤の言にも一理ある。
そもそも主が不在の時はバーナムも他所に預けられていたわけで、バーナムに触れる機会もなかったのではないだろうか。
それが今では自分というシッター兼留守番の人間がいて、訪ねてさえくればバーナムに大歓迎されるのだ。 病みつきになるのも無理はないかもしれない。
そういう意味では自分も直江にとっては必要な存在で、バーナムのおまけぐらいには好感をもたれているだろうなと、その程度の自覚の高耶だった。



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バーナム続き。とりあえずの直江さん登場
少々重たい過去を背負ってもらってんですが、結局いつもの直江さんになるだろうな…。
upより先にワードに直書きして、先日のプチの新刊に仕立てました





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