ぱたぱたと微かな軽い足音が聞こえる。 母屋からの長い渡り廊下を、この離れ目指して、許す限りの早足で。 (走っちゃダメだとあれほど言われているだろうに…) 馴染みの芸妓の膝を枕に、寝そべっていた男がくすりと笑いを洩らした。 その髪に柔らかく触れてくる手に誘われて視線を上げれば、やはり微苦笑を浮かべている臈たけて美しい貌。 彼女だってとっくに近づく気配に気づいている。 「……叱らないでやってくれ」 禿の躾は先達たるこの十六夜太夫の役目。 己が懐に抱える雛の無作法を客の前で見逃しては沽券にかかわるところだが、十六夜は、にっこり笑って言い返した。 「もちろんですとも。そもそも誰があの子を走らせているとお思い? 普段はとても淑やかなお利巧さんなんですよ?」 言外に男の所為だと詰る物言い。 こうした男女にはありがちの駆け引き。 けれど、決定的に違う点がひとつ。 それは当て馬でもなんでもなく、このふたりが話題にのせている主を心から慈しんでいるということだった。 軒の端に差し掛ったあたりで、足音がぴたりと止まった。 さあ、いよいよだ。 大きく息を吸っては吐いて、乱れた呼吸と興奮を鎮めている様が目に見えるようで、男は、必死にこみあげてくる笑いを押える。 ほどなく、しずしずと廊下を歩く影が障子に映った。 しとやかにその影が屈んで、やがて、よく通る子どもの声がした。 「失礼いたします。高耶です。ただいま戻りました」 「お入り」 十六夜が許可を出す、と、音もなく障子が開き、禿姿の子どもがひとり膝行して座敷に入ってきた。 流れるように優美な仕草で障子を閉め、その場で深々と礼をする。 「いらっしゃいませ。旦那さま。お久しゅうございます」 凛と頭を垂れたまま、こんなおとなびた言上を聞かされては、もう、いけなかった。 「はい。こんにちは。高耶さん。しばらく見ないうちにすっかりお作法が身につきましたね」 太夫の膝から身を起こし、笑いながら声を掛ける。 「でも、頭を上げていつも通りにしてください。此処はいつもの太夫のお座敷ではないし、煩くお小言をくれるおっかない人は誰もいませんから。 私だけには普通に喋って」 本当に? そんな表情でまず十六夜を窺った高耶は、笑いながら頷いて男の言葉を肯定する太夫の仕草にようやく得心したのだろう、 今度は男に向き直って、叫ぶように声を出す。 「いらっしゃいっ!直江!」 その愛らしい顔に、年相応の子どもらしい、向日葵のような笑みを浮かべて。 「さあ、こちらへ来て、あなたの顔をよく見せて。……ずいぶんと髪も伸びたんじゃありませんか?」 手招きをして、呼び寄せる。 素直に膝でにじり寄ってちょこんと座るその頭を優しく撫でた。 「ああ、本当に大きくなった……」 目元を細めて感慨に耽る男を、高耶は小首を傾げて見上げてくる。 「今日は……ずっといられるの?」 「ええ、そのつもりですよ。ようやく大きな仕事がひとつ片付いたのでね。……実は此処で昼寝をさせてもらおうかと、 女将に無理を言って早めにあげてもらったんです」 「じゃ、疲れてるよね。今、奥にお布団敷くから……」 腰を浮かしながら言いかける、その口調に少しだけ残念そうな色がまじるのを、むろん男は聞き逃さない。手を伸ばして引き止めた。 「布団だなんて大袈裟な。ここでごろごろしていられれば充分ですよ。 なにしろ太夫はこの後外せない出稽古があるというし」 ああ、そうだった、と、高耶の表情が見る間に曇った。太夫の外出にはもちろん高耶も供をせねばならないのだ。 「だってあまりに突然のお越しなんですもの。私どもにも内情というものがございますのよ?旦那さま」 非難めいた男の物言いに、十六夜が鈴を振るように笑って横から口を挟んだ。 「第一、こんな真っ昼間っから添い寝をしてちゃ、お天道さまに申し訳が立たないじゃありませんか」 ため息とともに男が応えた。 「……まったく。そういう薄情を平気で言うんだから、この人は。ねえ、高耶さん、袖にされた私を哀れと思って、どうか話し相手になってくれませんか?」 本当に困った旦那さま、と、十六夜も負けじと嘆息してみせて、己が禿に向き直った。 「高ちゃん、今日のお稽古の供は卯吉に頼みますから。私の留守の間、この甘えん坊の旦那さまのお相手をよろしくね」 え?え? 急な話の展開についていけない高耶がきょときょとと目上の二人を交互に見遣った。予め示し合わせていた大人の思惑など高耶は知らない。 直江とふたり此処で留守番していられるのは願ってもないことだけど。 だけど、いいのだろうか。本当に? 太夫を差し置いて禿の自分がそんなでしゃばった真似をして? そんな心の葛藤が透けてみる高耶の困り顔に、ふたりは微笑を禁じえない。 こっそり目配せを交しあった後、高耶を助けるように 「…お願いね?」 と、十六夜が念を押す。 高耶にとって太夫の言葉は絶対だ。 「……はい」 そう神妙に頷いて、そして、三者三様、和やかに微笑みあったのだった。 ぱたぱたと足音がする。 脇息にもたれながら、直江は心温まる思いで、その気配を受け止めている。 太夫の居ぬ間にとばかりに高耶が抱えてきたのは、過日、強請られるままに与えた書籍。 芸事と行儀作法の習得がすべてに優先されるこの世界では、本を読むのは決して褒められたことではないのだけれど。 それにしても、いささか堅苦しい内容のそれをもうこの子は読破してしまったのだろうか。 内心驚く直江をよそに、 寸暇を惜しんでぱらぱらと頁を繰り畳に広げると、あの、あの…と、 解らない箇所を指差して訊いてくる。 逸る気持ちに質す言葉が追いつかない、そんな様子で。 その熱心さがたまらなく愛おしくて。仔猫を宥めるように、その頭を撫でた。 「そんなに慌てなくても、大丈夫。私も本も逃げませんから……ね?」 黒々とした利発な眼差しが真っ直ぐに向けられる。 やがて、花がほころぶように笑うその笑顔を、何物にも替え難い思いで見つめる直江だった。 |