洋行を間近に控えた橘の御曹司が久しぶりに公の場に姿をみせたのは、評判の歌劇を上演中の格式高い劇場内だった。 元々、紳士淑女の中にあってもその端正な容貌と長身はひときわ目を引く存在だったが、 滅多に女性を同伴しない彼がその夜はひどく誇らしげな態度で恭しく一人の令嬢を伴ってきたから、たちまちロビーに居合わせた人々の注目を浴びた。 15か6だろうか、美しい少女だった。 すらりとした細身の身体に白のドレスをまとい、結い上げた髪にも白い花の髪飾りを挿している。 初々しく可憐な風情でありながらまるで生まれながらの貴種のよう、その身ごなしは優美で美しく着飾った年嵩の婦人たちを前に少しも臆したところがない。 自分をエスコートする男に自然に身体を預け、薄く化粧した顔に微笑を湛えている。 声にならないどよめきの中、少女に連れ添う御曹司もまた彼女しか眼に入らぬように眦を下げ、うっとりとした表情で見つめている。 誰一人割り込む隙もないままに、ふたりは人々でいっぱいのロビーを抜け、用意されていたボックス席へと消えていった。 間もなく舞台の幕が上がる。 開演時間が迫ったことに気づいた人々もまたそれぞれの席へ向ったが、 あれはいったいどちらのご令嬢なのだろう?と、密やかに囁かれる賛美と憶測もまた 劇場全体に細波のように広がっていった。 「ふぅ…」 人目の遮られた区画に入って、ようやく高耶が息をつく。 「……すっごい緊張した」 「とてもそんなふうには見えませんでしたよ?非の打ち所のない完璧なレディで。…… この調子ならきっと芝居そっちのけであなたに見惚れる若者が何人もいるでしょうね」 もちろん私もそのひとりですがと、平然と口にする男を高耶が呆れたように流し見た。 「それはダメ。せっかくこんな立派な席用意してもらったんだから、きちんと観賞しないと。 歌舞伎以外のお芝居観るの初めてなんだ。直江、いろいろ教えてくれる?」 間もなくはじまる舞台への期待と興奮とでその黒い瞳がきらきらしている。 こういうときでも学ぶことに熱心な高耶に、苦笑を浮かべながら直江が言った。 「私に解ることでしたらなんなりと」 そうして高耶は直江と肩を寄せ合い背景やら筋立てやらを囁き交わしながら、身を乗り出すようにして舞台を見物したのだが、 見晴らしのいいボックス席の前列に座る二人の姿は、当然他の席からもよく見えるわけで。 その楽しげで親密な様子に気もそぞろの観客が複数存在したのだった。 幕間の休憩時間、劇場のロビーは再び華やいだ雰囲気に包まれていた。 知己を得るための挨拶から世間話、互いの衣装の値踏みなど、上流の人々にとっては、 ある意味観劇自体より重要な社交の場だったが、ここでも一番の注目の的は橘の御曹司とその連れの令嬢だった。 物見高い視線を気にするふうでもなく、令嬢は連れから手渡されるグラスを受け取り、優雅な仕草で口に運ぶ。 輝く瞳と上気した頬。そして花のようにほころぶ紅い唇。 たおやかなその微笑みは彼女の連れ一人だけに向けられたにも係わらず、それを眼にした者全てが心奪われるようだった。 何人かが果敢に会話を試みた。 が、少女は美しく微笑んで軽く膝を折るばかり。何ひとつ彼女の言葉は引き出せぬまま、ナイトのように控える御曹司に追い払われた。 二幕の時間が迫ってきて、いったん皆が席へと戻る。 そして舞台が終了した時、 もう、ロビーに彼女を見ることはなかった。人目に触れることを避けるようにひっそりと彼らは別の出入り口から退出したのだ。 まるで一夜の夢のよう、舞台から抜け出たような美しい女性だったと、彼女を実際に目にした者は後々まで語り継いでいるけれど。 彼女がいったい何者だったのか、唯一知っているはずの御曹司は何も語らず、今も彼女の出自は謎に包まれている。 |