残月楼夜話

―爛漫 ―





―――ふと連想が働いたのは、彼の黒髪の所為だった。

その夜、ようやく想いを確かめあった最愛の人と肌をあわせた。
蕩けるような悦楽を彼は与えてくれたけど、彼にとって初めての行為はかなりの負担だっただろう。 ともに添い伏しながらとりとめなく睦言を交わすうちに、次第に口数が少なくなった。
何も心配しないでゆっくりおやすみなさいと、そう勧めるのにこくりと頷いて素直に瞳を閉じる。 そんな彼がどうにも愛しくて離れがたくて。
小さな子にするように背中を撫で頭を撫でた。
気持ちいい、と。
呟いた彼の口元が微笑を刻むのに気をよくして、そのままずっとそうしていた。
髻が崩れ、乱れて散らばる艶やかな漆黒の髪を、丁寧に手櫛で梳いて整える。
こうして何度か触れたことはあった。たとえば二人きりの離れで彼がうたた寝をしてしまった時などに。
その頃の彼はまだ幼くて、伸ばしかけていた髪は今よりずっと細くて柔い子どものそれで。 そのまま自然に流したらふわりと顔の輪郭を縁どるだろうねこ毛を、いつもきっちり束ねてひとつに結い上げていた。
だから、こんなふうに長い髪をおろしたままの彼を見るのは初めてかもしれないなと、記憶を辿ってぼんやりと感慨にふけっていた時だった。
ふいに、ひやりとしたものに思い当たって、手が止まった。

そういえば、彼は一度だけ髪をおろしたと聞かなかったか?
あれは確か―――

「なおえ…?」
甘えた声で名を呼ばれてはっと我に返った。
うとうとと微睡んでいたけれどわずかに意識はあったのだろう、腕の中の高耶が 動きのとまった掌をいぶかしむように、もの問いたげに重い瞼を持上げている。
「ああ、すいません」
彼を穏やかな眠りに誘えるように、そろそろと撫でる仕種を繰り返した。
安心したように高耶が息をついて瞼を閉ざす、 そんな仕種ひとつからでも彼の想いが伝わって、蜜のような喜びがじわりと湧き上がってくる。
身も心も、もうこの愛しい人は自分のものだ。
けれど。
ずいぶん前に、一度だけ、どうにも手の届かなかった彼がいたと、 はっきり思い出してしまったら、もうどうにも自分に押えがきかなかった。

「ねえ高耶さん?」
「………んー?」
今の彼は本当に眠りの淵に落ちかかっているようで、応える声もおぼつかない。それでも黙って引くことなど出来なくて、さらに続けた。
「……この綺麗な髪をばっさり切って男の子に戻る前に、一度だけ、私に付き合って下さいませんか?」
「………どういう、意味?」
幸い耳には届いたらしい。ふわふわした声音で不思議そうに訊き返すから、ここぞとばかり畳み掛けた。
「ご隠居さまたちのお茶会みたいに。ドレスをまとって髪を結い上げたあなたの姿を見てみたいんです」
「!」
がばっと高耶が身を起こした。
「直江、なんで知ってんの?!」
悲鳴みたいな声だった。 もちろん高耶は直江がドレスの一件を知っていたという事実を知らなかったのだ。
眠気もいっぺんに吹き飛んでしまったのだろう、目を丸くしたその顔にみるみる血の色が上ってくる。 逃げ出したそうに身じろぎするのを、しっかりと抱え直した。
「太夫に口止めされていたんです。恥かしくてたまらないようだから、知らん顔してやっててくれって。 でも、ご隠居さまたちも太夫も卯吉も女将さんもお店の妓たちも。 みんな見てるあなたの洋装を私だけが仲間外れで見てないんですよ?すごい不公平だと思いませんか?やっと、あなたの一番は私だって主張できるようになったのに」
そんな子どもじみた言い分を真剣な表情で言い募る男を見ているうちに、頭に上った血も落ち着いてきた。

あれは本当に恥かしかったし居たたまれなかった。
女の子の格好には慣れていたつもりだったけど、それでも全然足りなかった。
薄いドレスや剥き出しの腕や大きなリボンのことを可愛いと褒められれば褒められるほど身の置き所がなくなる思いがした。
だから、あのときは、何も知らない(と信じていた)直江が普段と同じに接してくれるのにずいぶんと救われた気がしたのだ。
でも。
直江は知ってたという。知っていて、あえて知らないふりを通してくれていたのだ。ずっと。今の今まで。
その直江が、いつも自分を一番に考えて守ってくれた直江が、 今は駄々捏ねるみたいにして必死に見たいと訴えてる。自分を独占することを当然の権利みたいにして。
それがおかしくてこそばゆくて、同時にひどくしあわせで。
好きなだけ我儘聞くって言ったばかりの直江の方が先に我儘仕掛けてるじゃないかと思ったら、もうくすくす笑いが止まらなかった。

「……高耶さん?」
どことなく不安を滲ませた直江の声。
一方的に言い過ぎたとでも思ったろうか。それとも無理かと慮ってくれてるのだろうか。
そりゃこんなに子どもっぽい直江は初めてだけど。 ドレスを着るのはやっぱり恥かしいけれど。 でも、大好きな直江の喜ぶ顔を見たいのは、一緒だから―――

深く息を吸って呼吸を整えてから、おもむろに高耶が言った。
「できたら、舞踏会とかはやめてくれる?今からじゃダンス覚えるの間に合わないと思うから……」
「もちろんですとも!」
遠廻しな承諾に、ぱあっと直江の顔が輝いた。



当日の身支度は嬉々として十六夜が引き受けた。
この日のために誂えたドレスと装飾品は、これ以上はないほどに高耶の魅力を引き立てていたが、もっと大切なのは心の気構えだと、いささか恥かしげに鏡に映る自分を見つめる高耶の肩に手をかけて、十六夜が檄を飛ばした。

「いいこと。照れたり気後れしてちゃ駄目。高ちゃんの行儀作法はこの私が七年かけてみっちり仕込んだんですからね。どんなお嬢さまにだって引けは取らないわ。この通り、お支度もお化粧もばっちり。だから堂々と胸張ってこの晴れ姿を皆に見せびらかしてきてちょうだい」
当分誰の目にも焼き付いて離れないぐらいにねと、直江にしてみれば穏やかならぬことを口にする。
自信満々悪戯っぽく笑いかけてくる彼女に何を思ったか、高耶は鏡ごしひどく真剣な表情で十六夜の顔を見返すと、力強く頷いた。
すっと背筋が伸び、ドレスの裾を優雅にさばきながら鏡台の前から立ち上がって直江の方へと向き直る。

「では、参りましょうか」
「はい」

 差し出した腕に手を添えにっこりと微笑むその姿は気品溢れる貴婦人そのもの、天女もかくやの美しさで。
得意満面、鼻高々で直江は高耶を伴い、目的地へと向かったのだった。







戻る/続く






直江の本懐(笑)編
はじめとおわりのギャップがなんとも(^_^;)
ドレスのシーンはこすげさんに丸投げです。どうぞお楽しみに〜♪







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