暗転

―1―




呼び出されて赴いたのは何の変哲もないビルの一角だった。
堅実な商いが定評の、中堅どころにランクされるとある商社のこじんまりとした本社家屋。
受付に来意を告げ、エレベーターに乗り、殺風景なフロアを抜けて、指定された応接室へと向かう。
人気はなくとも、そこかしこに監視の目はひかっていること、長い廊下を歩くうちに衣服はおろか体内まで透視されかねない厳重なチェックを受けていることを、男はすでにわきまえている。
だから、目指すドアをノックした時、内部からの応えが型通りの秘書の応答でなく、自分を呼び寄せた当人でのものあったことが少しばかり意外だった。


脚を踏み入れて真っ先に感じたのは、珈琲の香。
奥まったサイドテーブルに屈んだ壮年の男性がひとり、慎重な手つきで淹れたばかりの珈琲をカップに注ぎ分けている。
このひとがこの嗜好品に抱く飽くなき情熱は直江も承知していたから、その真剣さに思わず笑みが零れた。

「手ずから淹れてくださるとは畏れ入ります。色部さん。ご無沙汰しておりました」

「なに、数少ない道楽だ。君が恐縮することはない。今度来た秘書は本分の業務にはえらく有能なんだが、どうもこういうものを任せるのにはいささか心もとなくてな。彼女にはちょっと使いに出てもらったんだ」

視線はカップに向けたまま、片手だけをひらひらと上下させるのはどうやら座れという合図らしい。
秘書のいないすきに好きな珈琲を点てている様が、まるで母親の目を盗んで悪さする子どものようで、直江は笑いをかみ殺す。
体よく追い払われたその秘書にしても、将来の有望株には違いないのだろう。このひとの側仕えに抜擢されるぐらいなのだから。それにしても、と直江は思う。
勇んで出社してみれば、その上司から言い渡される最優先の課題が旨い珈琲を淹れること、というのにはさぞかし面食らったに違いない。
そういえば、自分も昔、何度も口うるさく淹れなおしを命じられたものだと想い出す。

「前の彼女は?以前、なかなか筋がいいと誉めていらしたでしょう?その彼女はどうしました?」

ため息をついて色部は言った。

「他所の部署に引き抜かれてしまったよ……。やっと、美味い珈琲を呑めると思っとったんだが…」

また振り出しからだとぼやきながら、直江の待つテーブルまでソーサーを両手に移動する。

「さ、冷めないうちに」

「いただきます」

へたに遠慮をしていては淹れたての価値は薄れていく。それが男を苛立たせるのを知っているから、軽く一礼だけをして、口に運んだ。
黒くて熱い液体は相変らず、絶品としかいいようのない味がした。
改めて感想を述べなくてもその表情から読み取れるのだろう、色部は満足そうに目を細め、自らもその馥郁とした香気を吸い込んだ。


「で。そろそろ今日の用件を伺いたいのですが」

「うむ」

無言のまま珈琲を堪能した後、空になったカップをソーサーに戻して居ずまいを正す直江に対して、どこか色部は歯切れが悪かった。

「もう一杯如何かな?」

「……いただきます」

答える直江をソファに残し、色部は再びサイフォン用具の並んだサイドテーブルへと立ち戻る。
豆を量り、ミルで挽きながら、やくたいもない話だが、と前振りした。

「最近ここで流れている噂なんだが……ついに君も恋人を持ったそうだな。下のフロアのおしゃべり雀たちが残念がっていたよ。あの冷血で知られた『橘義明』がついにおちた。とね」

「はあ」

曖昧に直江は言葉を濁す。相手の意図するところが読めずに。

「一緒に暮らしていると聞いた。その相手はかなり魅力的な青年だとか」

「……プライベートには立ち入らないのが、暗黙の了解だと思っていましたが?」

『魅力的』とはどこまでを指して言うのだろう?容姿か、その本性だろうか?なにげない言葉に反応して、直江は鳶色の瞳を眇めた。
有頂天に連れまわした時期もあったが今はそれも慎んでいる。彼の存在を隠すわけではないが、必要以上に注目されるのは本意ではない。
監視の『目』はすべて潰した。そもそもひとの口の端に上りようがない事柄なのだ。それを噂と偽ってまで、このひとは何を言いたい?
亡き両親の友人であり自分の育ての親であり、長じては、実質直属の上司でもある色部の柔和な容貌を、直江はただ黙って見つめる。


男のまとう空気が一変したのを感じたのだろう、豆を挽く作業を終えた色部は、不意に直立し口調を改めた。

「端的にいおう。直江。彼の身柄をこちらに譲り受けたい。君も一緒に」

若輩の自分に対して深々と頭を下げる。
しかし、再びあがった面には好々爺然とした印象は欠片も残っていなかった。




次へ




・・・ずいぶん前から頭にはあったけど、でも、絶対書けないね…なんて思っていた
「プランツ」高耶さん(すいません。解る人だけ解ってください)のネタを、 ここで使うはめになるとは・・・(苦っ)
色部さん悪役風ですが、実はいいひとなんです。ほんとです。




BACK