暗転

―2―




「いうまでもなく、これは組織としての意向だ。その意味が解らんおまえじゃないだろう」

叛意も抵抗もすべて無駄だと。在るのは諾という服従だけ。
色部の庇護もあって多少は気ままな身分でいられたが、その組織の持つ圧倒的な力は、直江だとて骨身に沁みている。
それでも素直に頷くわけにはいかなかった。

「おとなしくあなた方に囲い込まれてしまえとおっしゃいますか。今の立場を捨てろと?」

時間稼ぎの質問に、色部は律儀に答えを返す。

「そうだ。最低限、安全は保障する。安穏な生活もだ」

では自由はないのだと。心の中で直江は苦く付け加えた。

それにしても、なぜ?
何故組織が高耶を欲しがる?彼を手にして一体何をさせたいのだろう。
高耶は確かに奇蹟のように美しい、貴重な存在だけれど。
それならば、自分だって組織には貢献してきたはず。好きで選んだ仕事ではないが、技量に関しては他人の追随を許さないという自負があった。
それをあっさりと色部は捨てろという。一般雑務の配置換えのように。


「……それなりに役に立つ手駒だと思っていたんですがね。自分では。どうやら単なる自信過剰だったらしい……残念です」

自嘲めいた呟きに色部はかぶりを振る。

「君の今までの仕事振りを長老方は高く評価しているよ」

「でも、結局、私は彼の添え物に過ぎないのでしょう?」

「彼を自由に扱えるのが、君にしか出来ないことだからだ」

意味深に色部は言葉を切った。

「優秀な暗殺者ならこの先幾らでも養成できる。能率は落ちるし時間も掛かるが、君の抜けた穴は補充可能なポジションだ。だが、スウグを手懐けた人間は……後にも先にもこの世に唯ひとり、君だけだと我々は確信している」

「スウグ?」

耳慣れないその単語を思わず反復していた。それが彼の一族の名?

「……知らずにともに暮らしていたか…」

色部はどこか憐れむような、得心したような一瞥をくれると、新しい濾過布をロートにセットし始めた。

「表向き条約で保護されてはいるが、野生の虎の生体組織が漢方薬として高値で取引されているのは承知だろう」

突然すりかわった話題に、それでも用心深く直江は頷く。

「特に虎鞭…牡の生殖器は精力剤として珍重される。何故だか解るかな?」

「何故って……勇猛な雄の象徴にあやかりたいという迷信じみた妄執に理屈なんて必要なんですか?」

苦笑しながら直江が返す。だが色部は真剣だった。

「オットセイや鹿がどうかは知らんが……あいにくこれに限っては根拠がある。精力剤どころではなく不老長寿を授かるという代物だ。限られた者の口伝でしか伝えられてはいないその本来の霊薬は、この世界の生き物ではない、だが外見は虎によく似たスウグと呼ばれる妖獣の精液だという…」

血の気が引く思いがした。

「彼らはごく稀にこの世界に現れる。古代の皇帝たちによる大掛かりな捕り物は何度かあったらしい。だが、不思議なことに捉えられたスウグはすぐに衰弱して死んでしまう。死体さえも放置すれば消えてしまうから、特定の部位を生薬として保存するのが精一杯だったそうだ」

話をしながら、色部はフラスコにお湯を注ぎ、アルコールランプに火をつけた。

「……単なる代用品に過ぎない虎にでさえその部位には法外な値がつく。もしも、霊薬を生み出す生きたスウグが存在する事実が広まったら?確実に裏社会をあげての争奪戦が始まるぞ。君の力量を侮るわけではないが、そうなったら先ず勝ち目はない」

ボコボコと沸き立つお湯を見つめながら、直江は最後の抵抗を試みる。

「……だから、先手をうって囲われてしまえと?でも、その口伝自体が与太話かもしれないでしょう?この世に不老不死などありえないのだから」

「……だろうな。私も半信半疑だった」

お湯が差し込まれたロートを上に昇っていく。
その時、色部の手許が一閃した。

「!」

顔面に向けられた何かを直江は反射的に払い落とす。
乾いた音をたててテーブルに転がったのは、珈琲をかき混ぜるための竹べらだ。そのへりは刃物のように薄く削いである。
視線を戻せば、払いのけた右手から一筋、細かな珠の連なりとなって血が滲んできた。

「その血を拭ってみればいい。おそらくすでに傷口は消えているはずだ。薄皮一枚、ただ放っておいても二三時間で塞がるものだが、それにしても君の回復の速さは尋常じゃない。…君の身体自体が彼の効能を証明しているんだ」

諭すように語りながら、何事もなかったかのように色部は新しい竹べらを手に取り、ロートの内部を攪拌し始めた。
へらを回す向き、回数、間隔に独自の作法があるらしく、暫しそちらに集中している。
二回ほどの攪拌を終えると、色部はランプの火を消した。ロートの中の珈琲が、冷えたフラスコに戻ってくる。
フィルターの上に残された糟がきれいに三層に分かれているのを見定めて、色部が満足げに息をついた。

「……その身体を楯にしようとは思わんことだ。ずば抜けて再生能力が増しているはずだが……首を刎ねれば留めは刺せる。そして、彼も。君というパートナーでなくても、彼を酔わせ発情させ体液を搾り取る手段に、心当たりがないこともないからな」

では、色部は知っているのだ。彼らが、高耶の一族が好む瑪瑙や、おそらくは酒のことまで。
 あくまで逆らうなら、自分を抹殺してでも彼を手に入れると。


勧められた二杯めの珈琲はさすがに手をつける気になれなかった。
呆然と立ちのぼる湯気を見つめ、蒸発のすすむ表面に油膜のように浮ぶマーブリングの模様を眺める。

テーブル越しに座る色部も今度はそれを咎めなかった。

「彼はどうなるのでしょう?」

打ちひしがれた様相で、直江が問うた。

「どうもしない。君が承知すれば、今までの生活が続くだけだ。定期的に体液は提供してもらうが」

カップを置き、悠然とした仕種で色部は両手を組み合わせる。

「金の卵を産む鶏をわざわざ殺す真似はしない。命を奪い腹を裂いてみたところで、手にする部位はひとつ…或いは一対。ならば飼育して体液を採取する方が賢いやり方というものだろう。君が傍らにいてくれれば尚更、な」

「あなた方の口上だけで貪欲な年寄りどもが満足しますか?伝説のスウグの精だと、どうやって納得させるんです?搾り取るその過程も顧客の前で披露するんですか?」

「そういうこともあるかもしれん。獣の姿と人の姿と…おまえの手管で蕩ける彼はさぞや扇情的で美しいだろうな……その映像だけでも一財産だ」


だんっ!と。
カップが跳ねる勢いで、直江が拳でテーブルを打ち据えた。
その射殺しそうな視線を受け流し、淡々と色部が告げる。

「一週間後だ。直江。来週の今日にはこちらの用意する住居に移ってもらう。最高の環境であることは約束する。それまで監視はつけさせてもらうが、行動の制限はしない。自棄を起すほどおまえはバカではないことを、私は知っているからな。それまで…二人きりの時間を楽しむことだ」

重たい鋼鉄の扉が軋みながら閉ざされる。

死刑にも等しい宣告を下しながら、最後に労わりの言葉を付け加えるその貌に、以前と変わらぬ優しい慈父の微笑を宿して。



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スウグの漢字が変換できず、なんとなくマヌケな字面に…(苦笑)
ワードにはきちんと出るんだけどな〜〜




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