春霞ののどかな空に、大鷲が一羽、悠然と舞っている。 その影が不意に掻き消すように失せたかと思うと、 山手の中腹、里の全景を見下ろす少しばかりの平坦地に、忽然と男神がその姿を現した。 「さあ、着きましたよ。高耶さん」 愛しげに囁きかけたのは、腕の中大事に囲いこんでいる歳若い青年。鷲に変化していた間、彼をも羽毛のひとひらに変えていたのだ。 「……ん」 全身に受けていた風の音と勢いがいまだに生々しくて、高耶は夢中でしがみついていた男神の胸からおずおずと顔をあげる。 そして、頭を巡らし、目を瞬かせながら、眼下に広がる風景をみつめた。 「ここがあなたの生まれた里なんですね……」 「うん……」 山の稜線。谷川の流れ。斜面にへばりつくように耕された畑。その合間に寄り添うように佇む家作。 遠い記憶と重なる部分も、そうでない部分もあるのだろう。 しばらく視線を彷徨わせて、やがて高耶はぽつりと言った。 「あそこに、家があったんだ」 指差したそこは、緩やかな勾配の山の端、ただの薮地に見えた。 「ほんとに……もうなくなっちまったんだな」 両親が相次いで亡くなり荒れ果てた無人の家は、その後に里を襲った山津波にのまれたという。 高耶の生家ばかりでなく、被害は里の三分の一にも及び、離散する者も多かったらしい。 予め聞いていた話だ。覚悟はしていたつもりだった。 それでも。やはりその変化を目の当たりにしては、言葉などあろうはずもない。 堆積した土砂の上に草が生え木々が根付いて災害の爪痕を覆い隠してしまっても、 龍がのたうつような不自然な緑の荒地は里のあちこちに手付かずで残されている。 「ああでも」 黙り込み、痛ましそうな目で土砂の痕跡をなぞっていた高耶が感極まったように呟いた。 「お社の桜はそのままだ。よかった……」 釘付けになった視線の先には鎮守の杜。 そこにはひときわ堂々と、歳ふりた山桜が枝葉を広げている。 齢が千年は超えようかという大樹にとっては、百年という年月でもさしたる変化はないのだろう。 きっと、この里で唯一、高耶の記憶そのままの姿なのに違いない。 人間も、花も獣も。 下界の命はひどく儚い。 それでも想いは大地に沁み込み、小さな命は生まれた山へと還っていく。 聖域に根を張るこの樹は、その魂を年に一度、天へとあげる役目を担っているのだ。 木霊の宿る老木。 遠い同族ともいえるその存在に、直江は改めて目礼をおくる。 高耶に送った記憶の欠片は、彼らが見聞きしたもの。 おのずと集まる記憶の数々、 樹の有する混沌とした気の遠くなるような膨大な量のそれから、 ひとつひとつ高耶と彼の家族に関するものを選り分け、眠る彼に送り届けた。 還ってきてほしいと、自分の心情で包みこんで。 そして、想いは叶った。 だから、こうして彼はここにいる。 支えるように背後から抱き込みながら、直江はもうひとつ、この地に根付いた樹からは知りようのなかった事実を告げる。 「……里を離れた美弥さん……あなたの妹御はそのまま館の若者と恋仲になって結ばれて幸せに暮らしたそうです。 彼女は娘をもうけ、その子がまた代替わりした領主に見初められて側にあがって御子を産んで……やがて一家を構えたその子孫が、先年、本家を継いだとか。 だから。今の領主はあなたの血筋でもあるんですよ」 思いがけない言葉を聞いて高耶は驚いたように振り返る。 その顔を見つめながら、微笑んで直江は続けた。 「もしもあなたが望むのなら。あなたを小さなタマゴに戻して人の世界に帰すことも出来る。 血の繋がった人たちに囲まれて、何不自由なく人としての一生をもう一度やり直すことが。 どうです?そうしたいとは思いませんか?」 「…………」 深い色をたたえて黒曜の瞳が瞬いた。 「もちろん私も傍にいる。そうですね、あなたの守役にでも転生してずっと傍にいるから。 だからあなたは何も心配することはない。自分の思うとおりにしたらいい」 「オレの……思うとおりに?」 「そう。あなたの思うとおりに」 誘惑にも似たあまい問いかけ。 言いながら、直江は、高耶がそう望むことを微塵も疑わなかった。 人の子の彼にとって直江の棲む世界は決して居心地のいい処ではない。 彼が本復し、周囲の耳目を集めるにしたがって軋轢もまた多くなっていく。 直裁に手を出す輩はいなくとも、あからさまな好奇のまなざし、背後で交わされる密かな囁きは防ぎようがない。 そして、自分に向けられる興味本位の視線を、高耶は敏感に察している。 彼に気まずい思いをさせるくらいなら、いっそ自分が下界にくだろう。 人の子としての彼とともに生きるのも悪くない。 彼と過ごす玉響の時間。それはきっと素晴らしく充実した日々になるに違いないと。 そう思い定めて、口にしたのに。 彼はまたしても直江の思惑をあっさりと覆した。 まっすぐに見つめ返してこう高耶は言ったのだ。 「ありがとう…直江。でもやっぱりオレはおまえといたい。あの庭で花守として生きていきたい…」 「高耶さん…」 思いもしなかった応えを返されて、今度は直江が立ちすくむ。 そんな直江を困ったように高耶が見上げる。 「ごめんな。一度里に帰りたいなんて無理言ったから余計な気を使わせちゃった?でも、違うんだ。 また人の暮らしに戻りたいんじゃなくて、これを届けたかっただけなんだ」 そう言って隠しから取り出したのは一服の紙包み。 それを見て直江も得心する。中身はおそらくあの花の種。 「主殿から許しはもらった……これは人の身にも良薬になる。……その……オレが実らせたものだから、これはオレの好きにしていいって」 面映げにくちごもりながらも、慎重な手つきでそれを開くと、高耶は、中身をさらさらと空中に振り撒いた。 黒い微細な粒子が風に乗って散っていく。 それを見ながら、夢見るように高耶は言った。 「いつか里中がこの花でいっぱいになって……、そして誰かが気づくかもしれない。この花の薬効に。 そしたら、もうここは貧しい里じゃなくなるよ。誰も飢えなくていいんだ」 高耶の思い描く桃源郷。 それが現実になるのは遠い未来ではないだろう。 彼は強い。そしてとても優しい。 自分の思い込みを軽く超えて行動するこの人には、過保護な干渉など必要ない。 彼は自身の持つその本来の力で、周囲の曲解や偏見を解いていくのだろう。今はまだ居心地の悪い新しい場所で、逃げ出すことなど考えもせずに。 「まったくあなたという人は……」 言いさしたまま、あとは力任せに抱きしめた。 庇護者の立場に胡座をかいてはいられない。どうかすると置いてきぼりをくいそうなほど、自分の二歩も三歩も先を行くこの伴侶がどうしようもなく愛しくてたまらなかった。 「苦しいよ。直江」 高耶が抗議するように自分を拘束する腕を叩き、身を捩った。 が、男神を振り仰ぐその顔は笑っている。 長いことそうして見つめあっていて、やがて高耶が唇を湿らせた。 「……もう、帰ろう?」 「はい…」 一陣の風とともに、ふたりの姿は掻き消えた。 山間の里にも遅い春が巡りつつある、そんな或る日の出来事だった。
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