季節が一月も先に進んだような、うららかな早春の宵だった。 温かな店内から出てみれば外はもうすっぽりと宵闇に包まれている。 時折、頬を掠める風も冷たくはない。大気はしっとりと湿り気を帯びていて、ほこりっぽいような芳しいようなこの時季独特の匂いがする。 見上げれば、中天には、おぼろにかすみ、まるく笠を被った上弦の月が浮んでいた。 「こりゃ、明日は雨かな?」 そう云って高耶が傍らの男に視線を移す。 「よかったな。今日にしといて」 直江は柔らかく微笑むと、身振りで高耶を促した。 つられるように歩を進めながら、高耶はまだ月を見上げている。 「たまにはいいな。こういうのも」 「ほんとうにね」 直江の懇意にしている板前が独立し店を構えたという案内が自宅に届いたのがつい先日のこと。 マンションの地番と幾らも違わないその所在表記に高耶が興味を示し、それならばと挨拶がてらに顔を出し、食事をしてきた二人だった。 ゆっくり歩いて三〇分。いささか微妙な距離を結局歩くことにしたのは、そうすれば二人一緒に酒を嗜むことができるからと高耶が主張したからで、 おかげで直江は開店祝いの升酒の重たい風呂敷包みをぶら下げて持ち歩くはめになったけれど。 でもその選択は間違ってはいなかったと、高耶は満ち足りた思いで振り返る。 真新しい内装のぷんと木の香ただよう店内。 カウンター越しで間近に見る、強面で無骨でとっつきにくそうな亭主の、無駄のない流れるような包丁さばき。 その魔法のような手がつくりだすおまかせコースの一皿一皿はどれもみな絶品で、高耶がせっせと箸をつけ感嘆の声を上げるたびに、 ふっと和らぐ目元が外見に似合わぬ誠実な人柄をしのばせた。 食べることに没頭する高耶とこれまた寡黙な亭主との間にはいって、時折、直江がとりなすように言葉をひきだす。 亭主との間に交わされるその訥々としたテンポが耳に心地よい。 それまで無心に動かしていた手を止めて、箸休めにぐいのみに手を伸ばす。 冷酒を舐めながら、盗み見るように世間話をしている直江の顔を窺った。 直江の声質は相変わらず上等で、こうやって自分以外の他人に接している彼の姿は、高耶にとってはなかなか新鮮な眺めだった。 そつのない穏やかな会話、抑制の効いた表情。 片肘を軽くつき、酒杯を口に運ぶ仕草までもがサマになっている。 オトナなんだよな……。しかもオトコから見てもやっぱりいい男なんだ。こいつ。周りがほっとかないのも無理ないよな……。と、本人が聞いたらさぞ慌てふためくだろうことを考える。 実際、テーブル席のOLらしき三人連れの様子がどうもおかしい。 露骨に言い寄る素振りこそないものの、意味深な視線を投げかけたり、急に声をひそめたりと、あやしいことこのうえない。 この調子では身内だけになった後直江は格好の話のサカナになるのだろう。 そんなことまで思いながら、不思議とそれを嫉む気持ちは起きなかった。 だって、ここにいるのはオレの知っている直江じゃない。 取り繕った直江のマボロシ。本物は―――オレだけが知っている。 「高耶さん?」 呼びかけられて我に返る。気がつけば直江の視線は自分に向けられていて、その瞳の奥に気遣わしげな色が浮んでいた。 「あ……。ごめん、すこしぼんやりしてた」 「大丈夫ですか?顔赤いですよ」 「うん…。やっぱ食べてる方が性に合うかな。でも、もう一杯だけ。いいだろ?」 仕方ないですね……そんな微苦笑を浮かべながら、直江は突き出された酒杯に酒を満たした。 すかさず高耶が銚子を奪い取って直江の器へと注ぎ返す。 驚いたように見返す直江に笑いながら高耶がいった。 「せっかくクルマ置いて重たい思いしてきたんだから。呑まなくちゃ、損だよな?」 そうやってなし崩しにさしつさされつの繰り返しで二時間も過ぎた頃、店内も込み合ってきたのを機にふたりは腰をあげた。 そしてその頃には、高耶にも亭主が茂木という名で、見掛け通りのかなりの猛者で、過去の武勇伝は数知れず、そして美しい奥さんとこどもがいることまで知るような、そんな打ち解けた仲になっていた。 アルコールのおかげで日頃の人見知りがすこしだけ解消された、その余禄として。 「また来ような。直江」 「……あなたがそうおっしゃるのなら」 すっかり亭主に懐いてしまったらしい様子の高耶に、複雑な思いで直江が頷く。 高耶と酌み交わす酒は確かに格別だった。料理も申し分なく、茂木が板場にいることで醸しだす店内の雰囲気もまた心地よいものだった。 非のうちどころのない愉しいひとときになるはずだったのに、瞳を輝かせ、身を乗り出してあれこれ話をねだる高耶を見ているうちに、やがて心がざわついてきた。 他意はないとわかっているのに。 この人並みはずれた独占欲は、どうにも飼い馴らすのが難しい。 こと高耶に関しては平静を保てない自分に苦笑する。 そんな直江の胸中をよそに、高耶は飛び跳ねるような足取りで家路を目指していた。 ほろ酔い加減のそぞろ歩き。 うん。ほんとうに悪くない、と、高耶は思う。 暑からず寒からずの春の宵。 天空には月。 傍らには直江。 欠けるもののない安堵感。 ふわふわと心が浮き立つのは、たぶん酔いのせいばかりではないだろう。 この時間をすこしでも引き延ばしたくて、高耶の歩みは自然とゆったりしたものへと変わる。触れそうで触れない位置にある男の腕を意識しながら。 |