いつもと違うのは通り二本分。そして半町ほどの距離。 たったそれだけのことなのに、まるで見知らぬ街に迷い込んだような気分だった。 明るいうちに一度は通ったはずの道が、とっぷりと日の暮れた今となってはまったく別な町並みにみえる。 それは、この街に越してから日の浅い高耶だけではなく、普段、車で出歩く直江にとっても同じであったらしい。 歩く速さと視線で見る風景を愉しみながら、次第に緩む高耶の歩調にあわせている。 両側の家々には灯りがともり、わずかな風の影響か、時々やけに鮮烈に夕餉の香りが漂ってきたりする。カレーであったり、焼き魚であったり、なにか揚げ物の匂いだったり。 そのたびに、高耶は真剣に立ち止まってあれこれ献立を言い当てた。まるで自身が空腹でこれからそれを食べるのだといわんばかりに。 「なんか……いいよな。こういうの」 たった今も香ばしい醤油の香りに肉じゃがか里芋汁か?と首をひねっていた高耶がぽつりと云う。 視線の先には人待ち顔に晧々と照らし出された一軒の家の玄関。だが、目に映っているのはそれだけではないのだろう。 「昔はさ、羨ましくて仕方がなかった。こうやって誰かが帰るのを待っててくれる玄関の灯りとか、用意されているあったかいご飯とか、カーテンの向こうから聞こえてくる笑い声とか。 ……影の濃い路地から野良犬みたいに眺めるからよけいに眩しいんだ。灯りの一つ一つにいる幸せな家族が、オレには手の届かない遠い世界に思えた……」 「……高耶さん」 「あ、勘違いするなよ?ただの昔話。今はもうなんともない。だっておまえがいるんだから」 月の光を受けてきらりと光る瞳が、まっすぐに男を見上げる。 その突然の告白に、直江は思わず顔を覆ってしまいたくなる。 酔いが回ったときの高耶はいつも素直だ。アルコールが自制を程よく外すせいか、素面ならけっして口にしない本音をポロリと洩らす。心臓に悪いことこのうえない。 「まったくあなたという人は…。お願いだからそんなに煽らないでください。酔うととんでもなく無防備になる。さっきまでだって、店中の視線を集めてしまって私は気が気じゃなかったんですよ」 動揺を隠すための諭すような口調は、逆に高耶の癇に障ったらしい。むきになって言い返してきた。 「いーや、ウソだ。みんなおまえの方をみてた」 「いいえ、あなたです」 「おまえ」 「あなたです」 道の真中に突っ立ったまま、際限なく続きそうだった不毛な酔っ払いの水掛け論は、直江が不意に高耶の腕を掴んだことで中断された。 「――っ?」 身体で庇うように道端に誘導されて、ようやく高耶も気がついた。いつのまにか、一台のワゴン車が二人の背後に近づきつつあったのだった。 狭い路地のことで、まるで道を譲るかのように歩みを止めた二人の脇を、車はライトを瞬かせながらゆっくりとすり抜けていく。 徐行しながら遠ざかるスモールランプを見るともなしに眺めるうちに、もう言い争うのもバカらしくなって後を追うように歩き出す。 そのまま二十メートルほども進んだろうか。突然、先行していた赤のライトの光度が増してストップサインを示してきた。どうやら、ワゴンを運転していたのはそこの家の住人であったらしい。車庫に入るために何度かの切り返しをしているうちに、 ふたりは車までのわずかな距離を詰めてしまい、ちょうど降りたった男性と細い道路を挟んで向き合った。 顔も朧な月明りの下での軽い会釈。そして礼儀正しい無関心。 高耶らはそのまま道なりに、男性は車庫脇の瀟洒な門扉を開け、エントランスへ続く数段の階段に足をかけたとき、玄関のドアがいっぱいに開いて、黄色い光の帯がまばゆくあたりを照らし出した。 「おかえりなさぁぁいっ!」 転がるように走り出してきたのは小さな二人の子ども。先を争うように父親の腕に飛びついてくる。 一方の父親は、身を屈めて交互に頭に手を置くと、なにか小声で話し掛けている。 子どもたちにも帰宅した父親にとっても、おそらくこの出迎えはなんということもない日常の一コマなのだろう。 やがて子供たちは慣れた様子で鞄とお土産らしい包みをそれぞれに受け取って、父親を押し上げるように階段を駆け上がっていった。 開け放たれた玄関では、赤ん坊を抱いた女性が子供たちと夫が家にはいるのを微笑みながら待っている。 その胸に抱かれた赤ん坊までもが、身をよじり手をさし伸ばして父親の腕にいきたがっている風だった。 零れるような笑顔。はしゃぐ声。すべてを包みこむような暖かな色の光。 それは、ほんの一瞬、スローモーションのように垣間見えた光景。 静かにドアが閉ざされて光の帯は見る間に細くなっていく。全てが闇にとけるその瞬間、直江は高耶の浮かべた表情に釘付けになった。 宗教画を見るような切なくなるほど遠い眼差し。 何かを言いかけて無音のまま言葉の消えた口元。縋るように伸ばしたかっただろう指先はきっと固く握りこまれている。 憧憬と諦念の入り混じった刹那の貌。 その瞬間の高耶は確かに素の顔を曝していた。失われて二度と戻らない過去と喪した家族への愛惜とを。 いつまでも佇む高耶の肩に、いたわるように手をかける。ぎくしゃくと振り向く高耶の瞳に光が戻るのを待って、告げた。 「帰りましょう。私たちの家へ」 心に沁みこむまでの、しばしの沈黙。やがて高耶はゆっくりと頷いた。 「うん。そうだな。帰ろう、直江」 どちらからともなく伸ばされた手を固く繋ぐ。 寄り添ってひとつになった影法師が、長く短く伸び縮みしながら、幾つもの街灯の下を音もなく通り過ぎていった。 |